ウェスタン。
手を変え、品を変え。
実験の女神は (あるいはおとっつぁんかもしれないけど)
なかなか微笑んではくれない。
明日も、
少しでも気を引くための、努力は続く。
つつましく、つつましく。
最近ずっと気になっているニュースがある。
世間を騒がせている、イージス艦と、漁船の衝突事故。
泣き濡れた遺族の顔が、近隣の漁民の痛切な表情が映る度に、胸が締め付けられる。
冬の海の怖さは、他人事ではなかった。
自分だって、漁師の生まれ。
女子供、年寄り会わせ、人口が1000人に満たない浜でも、何年かに一度は、海に落ちて死にかけた人、死んだ人がでる。
そしてそれは、意外なほど近所の子供だったり、さっき会ったおじいさんだったりする物だ。
こんなことがあった。
近所の老漁師が、一人、雪の舞う正月の海へ出て、足を滑らせ、海へ落ちた。
冬の海は、急速に人間の体力を奪う。老人ならなおさらだ。
船には他に、誰も乗っていないのだから、他に助けを求める手段はない。
近くには、通り過ぎる、船すらない。
ただ、海面のうねりが、海へ落ちた漁師と船を静かに揺らすばかりだ。
服を着たまま海に落ち、そこからまた船に上がるというのは、相当な筋力がないと難しい。
若い漁師でも、至難の業だ。下手をすれば、船の方が、ひっくり返ってしまうだろう。
それは老人には、痛いほどよく分かっている。
冬の海に落ちて、体力がもつのは数分と言われる。
逆に言えば、死ぬのに数分、かかってしまう。
助かる当てもなく、助けを求める術もなく、ただただ波間に漂いながら
自分の体力の低下を、海底から静かに冷たい手をさしのべてくる、穏やかな死を、ゆっくりと感じざるを得ないのだ。
そんなとき、彼は何を考えていただろう。
老人は元々、遠洋漁業を行う、大きな船の船乗りだった。
漁をしている最中の船の上というのは、まるで戦場だ。
足が網に絡まる、腕が機械に挟まれそうになる、指が飛ぶことだってある。
暴れる魚にとどめを刺す銛は、人間にとっても凶器だ。ちょっと間違えば、けがでは済まない。
そんな世界に数年間も身を置いてきた。
おそらくは、船上で失った友人もいたことだろう。
あるいは、家族の死にも目に会えなかった人々を大勢見てきたに違いない。
海から多くの物を得た変わりに、海によって失った多くの物を老人は、
思い返していたのだろうか。
幸運なことに、この老人は、このとき、自らの命までは失わずに済んだ。
沿岸から、ふと海を見た、仲間の漁師が、船に人影がないのに気づき、あわてて船を出したのである。
仲間の漁師がそこへたどり着いたとき、その老漁師は、船の舳先のロープに、自らの腕を固く絡め付けていたという。
たとえ死んだとしても、すぐに死体が見つかるようにと言う、船乗りの最後の心得なのだそうだ。
海の事故で一番つらいのは、死体が見つからないことだ。家族は、十年たっても、二十年たっても、理屈の上では納得しながらも、ある日、不意に、父親が、あるいは夫が玄関先にひょっこり現れるのではないかという悲しい希望を捨てきれずにいる。
それを防ぐための、最後の方法。そんな知恵が、ずいぶん前に遠洋航海の船を下りたはずの老漁師の心に、依然として染みついていた世界。それが、漁場という物なのだ。
「板一枚下は、地獄」
今回事故にあった、漁村の漁師の言葉だそうだ。
このほかにも、海で家族を失った友人の話はいくつも聞いてきた。
いちいちあげても寂しくなるだけだ。
ただ、報道の通り、小型船がひしめく中に、自動操舵で、イージス艦が突っ込んでいったのだとしたら、それはもはや、船乗りの資格はないと思う。冬の海の冷たさを、海の恐ろしさを、風の怖さを、鋼鉄に守られ、海上数メートルの暖かな見張り台から眺めていた船員は知るよしもないだろう。そして、自らが、あの小さな漁船の立場になって考えるということも。
真の修羅場を知っているのは、幾多の模擬演習をくぐり抜けた自衛官などより、夜も明けぬうちから、毎日真冬の海に繰り出す、あの漁師たちなのかもしれない。
そこには、血があり、生きるための無数の殺戮がある。そして、一歩間違えば、殺す側が殺される側に転じることもある。それが毎夜毎晩、世界のあちこちの海で繰り返されている。
一方で、あの船に乗る自衛官たちのうち何人が、この航海中、海のしぶきに濡れたのだろう。
血のにおいをかいだのだろう。不意にのぞき込んだ深海に、引きずり込まれるような恐怖を思い、身を縮めたのだろう。
彼らは、単に、人を殺したことのない、殺し屋の集団なのだろうか?
どれほど簡単に、人という物が死んでしまうかすら知らない、青い集団なのだろうか。
そんなことはないはずだ。人を殺すために、あれほどの火力を用意した、船の上にいて。
彼らに、セーラーの誇りが、帰ってくることを、暖かな部屋の、テレビの前で、ウナギ一匹、勝手ながら祈っている。