2008-02-26

メデューサの瞳

【今日やったこと】
ウェスタン。
手を変え、品を変え。

実験の女神は (あるいはおとっつぁんかもしれないけど)

なかなか微笑んではくれない。

明日も、

少しでも気を引くための、努力は続く。

つつましく、つつましく。


◇◇◇

最近ずっと気になっているニュースがある。

世間を騒がせている、イージス艦と、漁船の衝突事故。

泣き濡れた遺族の顔が、近隣の漁民の痛切な表情が映る度に、胸が締め付けられる。


冬の海の怖さは、他人事ではなかった。

自分だって、漁師の生まれ。

女子供、年寄り会わせ、人口が1000人に満たない浜でも、何年かに一度は、海に落ちて死にかけた人、死んだ人がでる。

そしてそれは、意外なほど近所の子供だったり、さっき会ったおじいさんだったりする物だ。

こんなことがあった。

近所の老漁師が、一人、雪の舞う正月の海へ出て、足を滑らせ、海へ落ちた。

冬の海は、急速に人間の体力を奪う。老人ならなおさらだ。
船には他に、誰も乗っていないのだから、他に助けを求める手段はない。
近くには、通り過ぎる、船すらない。
ただ、海面のうねりが、海へ落ちた漁師と船を静かに揺らすばかりだ。

服を着たまま海に落ち、そこからまた船に上がるというのは、相当な筋力がないと難しい。
若い漁師でも、至難の業だ。下手をすれば、船の方が、ひっくり返ってしまうだろう。

それは老人には、痛いほどよく分かっている。

冬の海に落ちて、体力がもつのは数分と言われる。

逆に言えば、死ぬのに数分、かかってしまう。
助かる当てもなく、助けを求める術もなく、ただただ波間に漂いながら
自分の体力の低下を、海底から静かに冷たい手をさしのべてくる、穏やかな死を、ゆっくりと感じざるを得ないのだ。

そんなとき、彼は何を考えていただろう。

老人は元々、遠洋漁業を行う、大きな船の船乗りだった。
漁をしている最中の船の上というのは、まるで戦場だ。

足が網に絡まる、腕が機械に挟まれそうになる、指が飛ぶことだってある。

暴れる魚にとどめを刺す銛は、人間にとっても凶器だ。ちょっと間違えば、けがでは済まない。

そんな世界に数年間も身を置いてきた。

おそらくは、船上で失った友人もいたことだろう。
あるいは、家族の死にも目に会えなかった人々を大勢見てきたに違いない。

海から多くの物を得た変わりに、海によって失った多くの物を老人は、
思い返していたのだろうか。


幸運なことに、この老人は、このとき、自らの命までは失わずに済んだ。

沿岸から、ふと海を見た、仲間の漁師が、船に人影がないのに気づき、あわてて船を出したのである。

仲間の漁師がそこへたどり着いたとき、その老漁師は、船の舳先のロープに、自らの腕を固く絡め付けていたという。

たとえ死んだとしても、すぐに死体が見つかるようにと言う、船乗りの最後の心得なのだそうだ。

海の事故で一番つらいのは、死体が見つからないことだ。家族は、十年たっても、二十年たっても、理屈の上では納得しながらも、ある日、不意に、父親が、あるいは夫が玄関先にひょっこり現れるのではないかという悲しい希望を捨てきれずにいる。

それを防ぐための、最後の方法。そんな知恵が、ずいぶん前に遠洋航海の船を下りたはずの老漁師の心に、依然として染みついていた世界。それが、漁場という物なのだ。

「板一枚下は、地獄」

今回事故にあった、漁村の漁師の言葉だそうだ。


このほかにも、海で家族を失った友人の話はいくつも聞いてきた。
いちいちあげても寂しくなるだけだ。

ただ、報道の通り、小型船がひしめく中に、自動操舵で、イージス艦が突っ込んでいったのだとしたら、それはもはや、船乗りの資格はないと思う。冬の海の冷たさを、海の恐ろしさを、風の怖さを、鋼鉄に守られ、海上数メートルの暖かな見張り台から眺めていた船員は知るよしもないだろう。そして、自らが、あの小さな漁船の立場になって考えるということも。

真の修羅場を知っているのは、幾多の模擬演習をくぐり抜けた自衛官などより、夜も明けぬうちから、毎日真冬の海に繰り出す、あの漁師たちなのかもしれない。

そこには、血があり、生きるための無数の殺戮がある。そして、一歩間違えば、殺す側が殺される側に転じることもある。それが毎夜毎晩、世界のあちこちの海で繰り返されている。

一方で、あの船に乗る自衛官たちのうち何人が、この航海中、海のしぶきに濡れたのだろう。
血のにおいをかいだのだろう。不意にのぞき込んだ深海に、引きずり込まれるような恐怖を思い、身を縮めたのだろう。

彼らは、単に、人を殺したことのない、殺し屋の集団なのだろうか?
どれほど簡単に、人という物が死んでしまうかすら知らない、青い集団なのだろうか。

そんなことはないはずだ。人を殺すために、あれほどの火力を用意した、船の上にいて。

彼らに、セーラーの誇りが、帰ってくることを、暖かな部屋の、テレビの前で、ウナギ一匹、勝手ながら祈っている。

2008-02-18

こどもの国 おとなの世界

【今日やったこと】
ELISA。
やっとウェスタンから解放されたようだ。

とは言っても、
また数日で戻るんだけど。
◇◇◇

科学館に行ってみた。

科学館なんて、小さい頃、遠足で行って以来なのだが、
研究室の先輩に聞くと、意外に行きやすい場所にありそうだったので、
せっかくだからと行くことにしたのだ。

科学館の展示物、と言うと、簡単な実験設備や、コンピューターを使った、図鑑のような物を想像していた。その想像だって、数十年前の記憶に基づく根拠の薄い物なのだが、今は理科離れの時代でもあるし、きっと以前より、いい展示が増えているだろうと思って期待していた。

だが...。

行ってみてびっくり。

子供ばっかり。

しかも、どう見ても、小学校入学前の。

たくさんの子供と、同じだけの、お父さん、お母さんと、たった一人の、おっさんとも、お兄さんともつかない、中途半端な大人。

すぐさま、退散した。

そうなのだ。自分の記憶が、遙か昔で止まっていたくらいなのだから、
この場所は、子供のための、場所なのだ。

かつての子供は、
いつしか、中途半端に大人になり、
過去の記憶に従って、その道をたどってみれば、
いかに自分が変わってしまったかに気づき、呆然とする。

小さい頃に行った、遊園地も、公園も、改めて行ってみると、その小ささ、物足りなさに驚き、あの頃の楽しさは微塵も感じられないことを知って、もうあの場所は地上のどこにもないという、喪失感を感じずにはいられない。

たぶん、ピーターパンとネバーランドに出かけたかつての少年たちが、再び、その土地に行ったとしても、同じような気持ちになるに違いない。

俺ら、何が楽しくて、ここではしゃいでたんだろう。


でもまあ、そんなときにはたいてい、別なことには興味を持っているのだろうから、
失っている分、得ているのだろうけど。

大人も楽しめる科学館がないかな、と思った。
理科離れを防ぐには、子供より、大人に興味をもってもらった方が、早いと思う。
子供がどんなに興味を持ったって、それを楽しそうに聞いてくれる人が身近にいなかったら、子供はいずれ、興味を失ってしまうだろうし。

何より、そんなところがあったら、自分が行きたい、だけなんだけれど。


『おとなはだれも、はじめはこどもでした。でもそのことをわすれずにいるおとなは、いくらもいません』
   -- 『ほしのおうじさま』より

2008-02-08

その日、氷の上で。

【今日やったこと】
ウェスタン。今までのことを簡単にまとめると、ウェスタン。

今日も、昨日も、これからも。

◇◇◇


しばらく書かない間に、いろいろなことがあったが、いろいろなことを、いろいろ書いていると、いろいろと、きりがないので、書かないことにする。


それでも仮にあげるとすれば、先週末、ワカサギ釣りに行ってきた。

あの、氷の上に穴を開けて、寒い中、小さなおもちゃのような竿でさらに小さなワカサギを釣るという、難儀な道楽。
でもなぜか憧れる、不思議な魅力がある。

実際自分も、あれには小さな時から憧れていて、いつかやってみたいと思ってはいたのだが、結局やる機会に恵まれず、今に至っていた。

たいていは湖のような、人里離れたところまで行かねばならないし、そこは人が乗っても壊れないほどの氷の張るようなところだろうし、右も左もわからぬ素人が一人、行こうと思っていけるところではないことが多い。

幸い今回は、研究室のメンバー計5人、うち3人は経験者という顔ぶれだたので、安心して参加できた(経験者と言っても、3人とも一回やっただけと言うことなのだが、それでも一人で行くよりはずっと心強い)。

車に、いすと、釣り具と、コンロと天ぷら鍋を積み込んでいざ出発。

ついた場所は石狩川の河口付近。すでに多くのつり客がテントを張っていて、まるで、氷上のキャンプサイトのようだった。子供達は、深く積もった雪の上で、雪合戦をしている。

適当に空いていたところを自分たちのポイントにきめ、隣の家族づれのお父ちゃんから借りたドリルで穴を開けた。全員分空けたところで針を下ろし、つり始めた。

たった一回だけとはいえ、さすがに経験者は強い。3人とも、入れ食いとまでは行かないものの、堅調に釣れ始めた。自分は前半一時間ほどは全くの坊主。あたりすら来ない。

出自の関係上、海釣りの経験は多少ある方ではあるし、もっと人並みに釣れると思っていただけに、ちょっと悔しかったが、こういう物だろうと思い、根気強く待った。

その間、3人にはひっきりなしにあたりが来ている。釣れるまでは至らなくても、"あたった!"、”きた!”、とその都度歓声を上げる。自分の穴蔵は黙り込んだまま、ただ川面の水の静かな上下だけがゆっくりと繰り返されている。エサまでも、吸い込まれてしまったよう。何が違っているんだろう。えさの付け方とかは間違っていないはずだけど...。

互いの穴の間の感覚はせいぜい1m。それでも、よく釣れる人とつれない人がいるのだから、全く持って不思議だ。

待ちに待って、自分もようやく釣れたのは、つりもだいぶ佳境に入ってから。
いざあたりが来てみると、それは驚くほど弱い物だった。
自分は寒さを警戒し、いつも以上に分厚い皮の手袋をしていたから、もしかすると、そのせいで、このあたりを相当見過ごしていたかもしれないと、そこに至って初めて気づいた。

魚に竿を折られることもある、海釣りのイメージが先行していた自分にとって、このような繊細なつりは初めての経験だった。さらに寒いので、手の指先の感覚はほとんど無くなる。えさをつけるのさえ、大変だった。これは、つりと言うより、魚との我慢比べかもしれない。

でも、釣れた後にその場で作った天ぷらは最高だった。藻のような青い香りが独特だが、身も衣もさくさく。結局、三匹しか釣れなかったのに、4匹食べた。

帰りには温泉にも立ち寄った。寒い中、体は自分の感覚以上に冷え切っており、足の先などは濡れて感覚が無くなるほどだっただけに、格別だった。

風呂から上がって、疲れがどっと出て、アクエリアス片手に待合室で思わずぼんやりしてしまった。

次の日は普通に研究室で、正直、身体的にはだいぶしんどかったが、気分はかなり一新された。

新しいことに挑戦するというのは、本当にいい刺激になる物だ。

冬だからと言って、家の中ばかりにいちゃいけないなと、改めて思った。