2011-05-23

ブログ引っ越し

ブログ引っ越しました。

今後は以下のサイトを更新します。
http://deoxiribonuc.wordpress.com/

2011-04-16

現地報告に潜む危険

【デイリー南三陸 編集後記】更新分

避難所からの報告で、「〇〇には支援物資のダンボールが山になっている」というものがよくある。

こうした報告を目にすると、我々はつい、「あ、それではここは物資が足りているのだ」と判断してしまう。

しかし、少し待っていただきたい。

「そのダンボールの中身が、食料なのか、毛布なのか分からない」現地に入った方がそう話していた。「リストでも作れればいいのかもしれない。しかし、そんな暇は、被災地の誰にもない」

避難所には今、数百人を越える人間がひしめいている。つまり、集まる物資は、数百人分の生活物資だ。今まで、各家々に届いていた家財が、一軒の家に届き始めたと考えれば、その規模がわかるだろう。

リストをつくろうにも、右から左へ消費されていく。大手運送会社のような、物資の配送センターの機能を現場のスタッフに求めるのは酷だ。彼らの多くも被災者で、休日など知らない生活をしている。ボランティアとて、それは同じだ。

現地からそのような報告が来たら、まずは考えてもらいたい。「その報告の、ダンボールの山の中身は、一体なんなのだろうか。物資は本当に足りているのか」と。

2011-04-09

孫正義やアントニオ猪木でない僕らに出来ること

孫正義やアントニオ猪木のような著名人の、スケールの大きな援助を見ていて、僕らのような、家族が被災している一個人にどんな援助ができるのか、考えている。

基本的に、僕らには、大きな避難所の需要を満たすような援助は難しいし、それを可能にするような行動を取れるだけの時間もない。残された家族を守るために、今仕事を失うわけにはいかないのだ。

そうなれば、僕らにできるのは結局のところ、自分の家族を含め、自分に近しい人の安全や健康をとにかく守りぬくことぐらいしか無いのではないかと思っている。街の復興はもちろん目指すところだが、それは、特に僕らの場合には、この路線の延長線上にあるのではないかと思っている。少なくとも、逆に街全体に援助を続ければ、家族も守れるかといえば、現状として、それは期待できないだろう。

では、それぞれが、個人個人に行動すれば、それでいいのかといえば、そうでもない。被災した家族の援助をするにはたくさんの情報がいる。り災証明の発行、その他契約の解除、変更。もしかしたら被災者は物資を安く買えるような場合も出てくるかもしれない。僕らはこれからも常に、アンテナを巡らし、情報を集め、そして、家族を守らなくてはいけないのだ。

だからこそ、ツイッターや、ネット上でのつながり、そして、最終的には個人間のつながりが重要なのだ。手続きの開始に関する情報や、安売りなどを含めた、有用な情報を、些細なことでもupしてもらえれば、それで、自分と同じような境遇の人々の、家族が助かることになる。
それが重なれば、結局は街全体の援助につながっていくのだ。

自分が、家族のために、どんな援助をしたか。
その報告はこれから特に重要な報告になるとおもう。

2011-04-03

南三陸思い出写真館計画

震災でアルバムを無くした人のために、みんなのパソコンに残っている昔の写真を、少しずつ集めて共有しよう!というこの企画。

賛同してくださった方のアルバムへのリンク先を現段階でまとめました。
懐かしい一枚があるかもしれませんよ。


・@freeminds88 さん 
歌津町おもひで写真アルバム 歌津の写真を、南三陸町の写真を。少しでもと思い作成。写真の提供は、私とそして我が最愛の従姉妹という名の家族から。でも、顔をネット上にあげてもよいのか確認を撮っていないので、今回は風景写真と顔の映っていない写真をアップロードしました。


・@wildglass さん 
南三陸町戸倉の写真 2007年の祖母の家とそのまわり。今回の震災で全て流されてしまった場所です。 写真に写っている人は避難していて無事です!おばあちゃんと親戚と私の母。寄りの写真が多いのが悔やまれます。もっと景色撮っておけばよかった、、、

・@ab0727_chisan さん 
南三陸町-帰省時にいろいろ撮ってました。日付はバラバラです。写真見つけ次第、追加していきます。

・@urebass さん 
2003年4月 ウニの開港- 2003年4月に帰省したときに、ウニの開港に同行しました。波伝谷の坂本漁港から出港し、椿島(青島)の近辺が漁場です。漁をしているのは、父と祖父母です。今となっては貴重な資料かもしれません。
2001年3月 実家にて-大学を卒業。就職が決まり、上京準備のためにしばらく実家に滞在していたときに撮影。
2002年8月 帰省時撮影-2002年の夏に帰省したときに撮影。
2008年6月 帰省時撮影-初めて嫁様を実家につれて帰り、親に紹介しました。一応、観光名所巡り。荒島、ホテル観洋、神割崎。

・@f_miho さん
「戸倉思い出アルバム」 - 戸倉保育所・戸小・戸中・同窓会の写真を載せています。

・@tohruk1117 さん 
「戸倉長清水アルバム」 - 前半は藤浜小学校、後半は戸倉中学校の写真です。

・@YYOI  
南三陸町思い出アルバム - 津の宮の風景とじぶんち

今後とも投稿があれば追加します!
よろしくです!

猪又先生写真募集

twitter @nya_goさんが猪又先生の写真を募集しています。

つぶやきから抜粋します。

--
「ある程度集まったら、猪又君の映っている写真をご両親にプリントして送ってあげたいのですが・・・彼はいつもカメラマンなので、彼の映っている写真がほとんどといっていいくらいないんだそうです。」

「どこかにまとめてアップしていただいたら、わたしのほうでダウンロードしてプリントして送ります」

「カメラとノートパソコンは、津波にのまれて塩吹いてました・・・今年の卒業アルバムは濡れたけど無事でした。」

「お母さんは、卒業アルバムの写真=遺影ではじめて彼の顔をまじまじと見たって繰り返していました いつもそこに寝転がってるのを何となく見たことしかないって。
--

そこで、猪又先生の写真を募集します。
持っている方は以下のアドレスに写真付きのEメールを送ってください。

106216648354764653939.innosin0□picasaweb.com

□に@マークを入れてください。

本文は空で、件名に、送信者とその写真についての簡単な説明(2000年の運動会、など)があると助かります。

(送ったことをmixiのメッセージかツイッターで知らせてくれるとなお助かります。写真サイズは出来れば1M以下に小さくしてね!)

送られた写真は順次、手作業で以下のアルバムに移します。

「猪又先生写真」 
https://picasaweb.google.com/106216648354764653939/orEARI?authkey=Gv1sRgCJf596fg0oilnAE#


よろしくお願いします!

2011-04-02

縮み上がることが復興につながるのか?

デイリー南三陸編集後記
--

東京ではすでに桜が見頃を迎えているようだ。被災地東北の春はまだ遠いが、それは確実に近付いている。泣いても、笑っても春は来るものだ。自然は冷淡で、そして誰よりも温かい。

さて、 どこかの知事が、このご時世だから、花見などするべきではないとコメントしたという話がニュースになっていた。また、テレビ東京が報道体制を通常に戻し、アニメを流したところ、苦情の電話が600件も来たという。被災地を想い、苦しみを共有するという暖かさは感じるが、ここではあえて、そんなことはするべきではないと言いたい。

日本の約半分近い地域が被災した今回の震災において、東日本の経済活動もほとんど停止した状況にある。こんな状況で、さらに経済を動かさずに縮み上がっていたなら、一体誰が、この苦境からの復興を成し遂げられるというのだろうか。復興には多額のお金がかかる。 そのお金の大半を拠出するであろう国も、我々の経済活動から税金を得て活動できる組織である。 円滑な復興をもたらすためにも無事だった地域の人々は、どんどん働いて、お金を稼がなくてはいけない。

知事のコメントやテレビ東京への苦情は「被災地を忘れるな」という声の表れでもあるだろう。その点は共感する。長い時間がかかるこの復興で最も大切なのは、常に一定の関心をこの件に持ち続けていることだ。被災者やその支援者、メディアはそれを意識し、震災を忘れられたものにしないよう、努力し続ける必要がある。

復興とは、つまりは日常を取り戻すことだ。視聴者に心の傷を追わせることすらある、震災対応の物々しい報道が、春の訪れを告げるニュースや、楽しい番組に置き換わっていくことは、必ずしも悪いことではない。

2011-03-30

恩師に関して。新聞記事より

将来は理科の先生に 宮城・南三陸町、恩師失い誓う生徒
2011年03月20日 01:42
 大津波で壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町。津波は須藤望さん(15)が通う町立戸倉中学校にも押し寄せ、理科の教師猪又聡先生(43)をのみ込んだ。「どんなにいい先生か、いなくなって分かった。もっと話がしたかった」

 卒業式の前日だった。「卒業アルバムに何か書いて」と手渡すと、猪又先生は「LOVE&PEACE」と記した。その直後、大地震が襲った。

 先生は率先してグラウンドに避難してきた住民の車を誘導していた。だが、津波は高台に建つ中学校まで到達。濁流が避難してきた人や車を流し去るのを目の当たりにした。先生は後日遺体で見つかった。

 授業は難しく、何を話しているのか理解できない時もあり「正直あまり好きではなかった」。

 ところが先生の死後、別の教師から「猪又先生はおまえのことずっと気に掛けてたぞ」と伝えられた。避難所で布団に顔をうずめて泣いた。

 思い起こせば、進路の相談はもちろん、何でも親身になって聞いてくれる「アツい先生」だった。「もう少し素直になってもいいんじゃない?」と言われたことがある。「どういう意味か聞く前に亡くなった」

 隣の登米市の避難所で生活している。合格した高校とは連絡がつかず、これからのことをじっくり考える余裕もない。それでも新しい夢ができた。「猪又先生のような理科の教師になりたい」

北日本新聞

「自宅避難民」に関するつぶやきのまとめ

先ほど@Kotomchocoと「自宅避難民」の問題について電話で話した。避難所にいないために、情報、物資の点で不足する傾向が強い。特に食糧不足は深刻。 「家があるからいい」のだろうか。家しか無いから、やはり不幸なのではないのだろうか?
2011-03-29 18:55:51

都市型の阪神と異なり、東北の震災における被災者は地区が壊滅しても土地を離れない傾向が強い。街の中心部の避難所暮らしですら馴染めず、不自由な地元で生活を続ける人は多い。 阪神のような拠点集約型の援助は通用しない可能性が高い。 分散型の援助が必要だ。 
2011-03-29 22:00:12

迷惑をかけると遠慮する高齢者、小さな子供を抱えた母親、わが子のように大切にしているペットと離れられない夫婦、家が「残ってしまった」人々…。彼らの多くは避難所に入らず、不自由な自宅暮らしを続けている。医薬、食糧すら不十分な彼らに対する援助は遅れている。
2011-03-29 21:00:04

放射能が残る土地ですら離れず非難しない人々がいる。東北とはそのような場所だ。我慢をしすぎ、自分を犠牲にしてでも、自分たちの土地にしがみついてしまう。この気質を無視して援助はできない。「避難所に来ないから援助を受けられなくて当然」、では、被災者は救えない。 
2011-03-29 21:30:03

避難所にいる人々だけが被災者ではない。様々な理由で自宅や遠戚の家に身を寄せる「自宅避難民」が数多くいる。情報、食料が未だ不足している彼らをなんとか支援する方法はないか? 
2011-03-29 19:02:17

http://togetter.com/li/117625

2011-03-28

避難所以外の避難民に注視を

災害発生から3週間目に入り、徐々に避難場所での秩序が整いつつある。班分け、係わけ、ボランティアの受入、物資配給など、避難に伴う様々な仕事は体系化され、被災者自身、もしくは有志たちによって賄われている。一方で、それから漏れた自宅避難民の取り扱いが問題となっている。深刻な場合、配給から漏れ、事実上の孤立に至っているケースもある。自宅があるからいいという問題ではない。彼らの多くは自宅があるというだけで、やはり多くを失っているのだ。ある試算によれば、その数は避難所の被災者の二倍に上るという。避難所の生活に馴染めず、車中泊する被災者も多い。彼らとの連絡手段をどうするか、それが早急に解決しなくてはいけない課題だ。失った物の数は考慮されるべきだが、それによって被災者がランク付けされることはあってはならない。失ったもののが大きすぎたのだ。その大小に、もはや差など無いに等しい。

編集後記

2011-03-27

最も被災地のことを知らないのは被災地だ

3/26 デイリー南三陸編集後記
実は、今、最も被災地の情報が入りにくいのは被災地だと言われている。現地の被災地に情報を届ける方法として、当紙のアドレスを現地のケータイにメールで送る方法もある。災害地向けFMラジオの開設も進んでいるが、音声情報には聞き漏らしの可能性が常につきまとう。多忙な被災地で、ラジオをいつも聞いているわけにもいかない。現在、被災地の多くで通信が復旧し、ケータイが使える。この方法に限らず、ケータイやスマートフォンを利用したニュースの受信は非常に有効な手法になるだろう。

2011-03-26

ろぐ

YYOI 12:47am via www.movatwi.jp

非常時は結局、平時の延長なのだ。平時に決めて無かったことを急に決め ても混乱するだけなのだから。


YYOI 12:10am via HootSuite

リーダー不在だ、と言っている人が、リーダーになればいいのに。


YYOI 12:15am via HootSuite

来日した外国人外国人医師に何もさせなかったとの批判があるがイレッサの問題を見て、それを最初に合法化した国の医療を何も考えずに受け入れられるだろうか?平時の規制は政治家が主導して変えろというが、この時期に政治家が好き勝手したら、混乱が助長しないだろうか?

2011-03-23

被災者支援とくにメンタルケアについて

被災者のメンタルケアについて専門機関にアドバイスを頂きました。

twitterなどネット上にも、震災による精神的なダメージを受けた方による書き込みは散見されます。そうした場合、以下のような対応が考えられるそうです。

(下記に示すのは一般的な場合であり、必ずしも全ての方に当てはまるものではありません。難しい問題なので無理はせず。出来る限りで)


1.身体的な問題がある(眠れない、下痢をするなどが続く)。
→専門の医療機関に相談
・各都道府県の県庁所在地に精神保健福祉センター、 区市町村には保健センター(旧保健所)。

そこまで行く手 段が無いようなら、

・「宮城県精神保健福祉センター震災関連心のケア電話対 応:6時から9時 0229-23-3703・9時から17時 0229-23-0302・17時から2時 0229-23-3703」

・「心の相談緊急電話0120-111-916 (フリーダ イヤル):日本精神衛生学会他主催」


2.いつもよりイライラ、くよくよしている。何かしなければ、という意識が強い。
→震災に対する当然の反応。前向きになることを促したりせず、まずは体を休める。
たまには震災のニュースをあえて見ず、チャンネルを変えたり、スイッチを切ったりすることも必要
散歩や音楽もいい。

(まあ、あんまり考えすぎんことじゃ。いずれにしろ、震災がでかすぎるんだから)


3.孤立感が強い
→話を聞いてあげよう。twitter などでもある程度は出来る。顔を合わせて、が本当はよい。
「一人でない」「繋がっている」感覚を与えてあげることが大切。

(「ふーん、そうか。」だけの返事でも、うれしいもんだよね)



4.「死にたい」などの言動がある。

→上記の専門機関への相談がおすすめ。


なにより、支援する側も、あんまり疲れないように注意。
長丁場なんだから、ゆるゆる参りましょう。



この記述は、日本臨床心理学会の専門家アドバイスに基づき、ブログ管理者が作成しました。
専門家による要約ではないことに注意してください。

真摯なご返答を頂いた同学会と役員の先生に心から感謝申し上げます。

「助かった」から「足りない」へ

人々は復興に向けて動き出しつつある。震災直後は、「助かってよかった」「命だけでも」という言葉が多かったが、10日以上が経つに至って、その声は「足りない」に変わりつつある。燃料、電気、水道、ガス、食料、スペース、プライベート……。足りないものは数々ある。だが、それは生きるための欲求が沸き上がってきたことの証明でもある。足りないものをもっと挙げ、不平不満を表にするたび、人々は、町は再び復興へと近づく。

pepar.li 3/23 編集後記より

2011-03-21

悲報に接して

猪又聡先生

先生のご悲報に接し、未だに紡ぐ言葉が見つからないでいます。この度の震災の報を聞き、親しい人、大切な人に少なからず犠牲が出ることは、覚悟していたつもりでありましたが、実際それが、猪又先生であったとは誰が予想したことでしょうか。

私たちの世代は、猪又先生が戸倉中学へ赴任してきた当時、中学2年生でした。以来、先生と、私たちの学年との交流は、現在まで、正確には、あの憎むべき震災のあった瞬間まで続いていました。先生にとってはある意味では一過的な、一世代の教え子に過ぎなかった私たちと、先生は、学校での付き合いより、ずっと、ずっと長い期間、交流を続けてこられました。それは私たちの世代だけにはとどまりません。先生の在任中の全ての中学生達、父兄、地域の方々が今同じ気持なのではないかと思います。何故あの人だったのか。その疑問はしかし、いつまでも解決されることはないまま、私たち一人ひとりの中に永遠に残され続けるのでしょう。

仕事の関係で赴任してきただけであるはずの南三陸戸倉に、先生がどうしてここまでこだわり続けられたのか、卒業と共に多くがふるさとを出た私たちには、正直わかりませんでした。戸倉には、必要なものが何も無いような気がして、必要なものをよそに求め、私たち教え子の多くはそれぞれの都会へ、巣立って行きました。

しかし、先生の悲報に触れ、故郷の悲しみを知るにいたって、私たちはようやく気が付きました。必要なものが、故郷になかったのではなく、そもそも、何も必要なかったのだと。故郷というものがあれば、それで良かったのだと、みな気付かされたのです。私たちは再び、その悲しみを共有しようとしています。自由が許されるなら、その場に駆けつけていきたい気持ちは、皆同じです。それが許されないことはもどかしく、辛いことです。誰よりも私たちの故郷を愛した先生は、そのようなことはとうに知っていらっしゃったのかもしれません。我が身でそれを教えようとしてらっしゃったのかもしれません。しかし尋ねるには遅すぎました。私たちの故郷は流され、そして先生も失ってしまいました。今はもう、悲しい気持ちだけが、胸をいっぱいに覆い尽くしています。

先生が守ろうとした故郷を、今度は私たちが再興させねばなりません。それは遠く、あまりにも重い課題です。しかし、到達不能な目標ではありません。夜空に光るいくつもの星の光は、数百万年も前にその星から放たれた光の粒子が、今私たちの頭上に降り注いでいるのだと、先生は教えてくれました。故郷を発った私たちの都会の空に見える光は小さく弱いものですが、もう元の故郷の空を忘れることはないでしょう。少しずつでも、その復興に力を注ぎ、また元のような、先生の愛した町を蘇らせようと一人ひとりが胸のうちに定めています。

どうかその時まで、
我々を見守っていてください。

平成10年卒業生 一同
代筆 須藤洋一

2011-03-20

紹介した曲

【今日紹介した曲】

気分転換その1 "Don't Look Back In Anger" (OASIS) http://ow.ly/4i64C
YYOI 5:30pm via HootSuite

気分転換その2 ”ラブレターのかわりにこの詩を。”(星羅)  http://ow.ly/4i69b
1 Retweets
YYOI 5:08pm via HootSuite

気分転換その3 "Let it be" (The Beatles) http://ow.ly/4i6eJ
YYOI 5:16pm via HootSuite

トリを飾るのは……。 ”スーダラ節” (植木等)  http://ow.ly/4i6f9  高品質PV
YYOI 5:29pm via HootSuite

2011-03-19

悪い噂

twitter上で、現地に入った、互いに無関係と思われる複数の方が、被災地の治安の悪化を報告している。

私は基本的に、こういう時期の悪い噂は、心の不安から来ることが多いので、信ぴょう性が低いと考えるが、こうも話が揃うと、少なくとも地元でそういう不安が蔓延しているか、本当にそうした事態が発生しているかのいずれかであると、信じなくてはいけない。いずれにしろ、いつまでも放置しておけない事態だ。

投稿によると多いのは盗難で、具体的には燃料の盗難があるとのことだ。
いくら田舎の、基本的には穏やかな地方とはいえ、いろんな人間がいる。

それに、この極限状態だ。他の国での大災害の現場を見れば明らかだが、泥棒の一人や二人、出ないほうがおかしい。被災地の人はみんな助けあっていると信じたい気持ちはやまやまだが、それと事実とは別だろう。まずメディアはいつまでもお涙頂戴の取材ではなく、この報告の真贋をしっかりと取材するべきだ。そして、必要十分に報じるべきだ。

いかに困窮する被災地であるとはいえ、これは当然犯罪だ。誰かのものを盗むということは、こうした状況下では他人の生きる権利を奪っているに等しいので、許されるべきものではない。

治安が悪化すれば、これから本格化するボランティアの活動の妨げにもなる。善意で入ったボランティアが被害にでもあったら、目も当てられない。

今回の津波で、役場の機能が麻痺し、警察単独の治安維持には期待できそうもない。

とにかく治安をこれ以上悪化させないことが最優先だ。
自警団を警察や、その応援のもとにしっかりと組織し、これ以上の治安の悪化を何としても防がなくてはいけない。

また、行政は住民にこれからの復興プロセスを、具体的に、早急に示す必要がある。
こうした治安の悪化は結局のところ、未来に希望を持てないことが根本にある。
だから、これから、こういうプロセスでやっていけば、いつごろにみなさんは普通の生活に戻れる。そして、国や町は、そのためにこうした援助をする。そうした工程表と目標日程をとりあえず示すことだ。

未曽有の災害で先行きの見えないことは国も同じだから、今の段階でそれを示すことにはためらいもあるだろうが、たとえ結果的に間違いはあっても国が目標を示さないことには、住民は将来など描きようもない。

幸か不幸か、災害からの復興はこの国にとって全くはじめての経験ではない。
これまでの経験の延長線上に、被災地の将来は描けるはずだ。

日本の国は、町を失った被災者に、ビジョンを示せるだろうか?
それがこの国の、最も苦手とする分野なのは分かっているが、はびこる悪い噂を払拭するために、残念ながら今はそれを問われている。

2011-03-18

嫌な、しかし危険な前兆

自分にできることはせいぜい情報整理しか無いと割りきって、twitter上に流れる情報を逐次選んでRT、ないしマッピングする作業に従事している。

最近、ネット上を見ていると、以下のような嫌なtweetが眼に入る。

“中国人は被災者の所から配給のご飯や毛布を盗んで帰る。陸にうちあがったご遺体から時計や金品をはずし。女川、野蒜、志津川で起きている ”

このニュースは、震災にともなって解放されたあるお笑い芸人のブログのコメント欄に乗せられた情報が元になっている。この手の情報は極めて危険だ。

指摘している人も多いが、この発信者は、まだ電話が十分に復旧する前の時期に、女川、野蒜、志津川という、相当離れた箇所の情報を同時に得ていることになる。TVなどでは、この手の情報を流すことはないので、この発信者がどのようにしてこの三箇所から情報を得たのか、まったくもって不明だ。

かつて、関東大震災の頃、朝鮮人が、井戸に毒を投げ込んだという噂が広がり、それがきっかけで朝鮮人が虐殺、暴行を受けたという悲しい記録がある。

歴史的に判明していることだが、もちろんこれは風評だったのだ。
同じ被災者である者どうしが、パニックの中では殺し合うこともある。日本人は、礼儀正しく、どんな時でも礼節を失わないと海外メディアがほめたたえているというニュースばかりが流れているが、日本にも、このような歴史があることを忘れるべきではない。

今回の報告が、風評であるのか、事実であるのか、私は知らない。
でも、だからこそ、このニュースを不用意に拡散しようとは思わない。

悪い噂を流すときは、十分に注意しなくてはいけない。
それによって、傷つき、危害を受ける人間がいることを、十分に意識しないといけない。


それは、日本人同士にも、十分言えることだ。

悪い噂よりも、安否情報を。通行可能情報を。
悪い噂で人は救えないが、こうした情報は命を救う可能性が高い。

2011-03-17

ホタルの光

先日亡くした中学の恩師に関する、友人のブログを読んだ。
http://ameblo.jp/tomtomradioheadyork/entry-10831103898.html#cbox

こんなこと、言ってたっけ、あのひとというのが正直な感想。
猪俣聡は理科の教師で、私たちが中学二年生くらいの時に、30歳くらいの学年主任として田舎の戸倉中学に赴任してきた。学年主任としては、私たちが最初の生徒だったらしい。

正直、嫌な先生だった。
いや、先生にとっても、私は嫌な学生だったに違いない。
私は理科が好きで、知識をひけらかすのはもっと好きで、何歳も年上の先生相手に、張り合うことを楽しみとしていた。先生とはブラックホールの話もしたし、なんだか今だにわからない量子力学の話もしたし、宇宙論の話もしたし、ホーキングの話もした。

いろいろな子供向けの科学者の漫画伝記を持っていて、それを教室においておいて、自由に読ませてくれた。

そのくせ、授業ではいつも当ててくれなくて、テストでどんなに頑張っても、ほとんど褒めてくれなかった。私は、嫌な生徒だった。先生にとってもそうだったに違いない。アインシュタインが祖父だと言っていた。私はそんな話信じなかった。天パー意外、何も似ていないじゃないかと思った。

よくトランペットを吹いていた。ジャズが好きだと言っていた。金ピカの金管楽器に、ミュートを取り付けて、ただでさえ大きめの顔を、フグみたいにふくらませて、ぷうぷうと吹いてみせた。私は、音楽はあまり聞かないといった。先生は、アインシュタインはバイオリンを弾いていたといった。そんなことは、どうでも良かった。

私は高校に入り、生物学を選んだ。大学も、生物系の大学へ進んだ。先生や、アインシュタインの物理学は選ばなかった。私に、数学の才能がないことを痛感していたこともあったが、先生への反発がないかと言われれば、否定出来ない。私は先生が嫌いだった。あまり、一緒にしてほしくなかった。

大学も後半、教育実習生として、戸倉中学に帰る機会があった。先生はすでに、戸倉中学にはいなかったが、教職員組合の組合員として、近所に残っていた。私が翌日の授業の準備でひいひい言っているところに、のんきに現れて、茶飲み話をして、去っていった。一言の助言すらなかった。自分がとった、学位の論文を嬉しそうに見せたりとか、せいぜい、そのぐらいだったように記憶している。先生の風上にも置けない人だと思った。

大学を卒業し、大学院に入り、そしてそれが後半になっても、先生は戸倉に居座り続けた。
30代で学年主任につくというのは、将来を嘱望されてのことだったのではないかと思ったが、彼はそんな道を捨ててしまっているようにすら、私には思えた。もっとあちこちの、大きな都会の学校を渡り歩けば、自ずと偉く慣れたのに、どうして、あんななんにもない、片田舎の中学校に、こだわり続けたのか、私にはわからない。

今年の正月、同級生が集まった席に、当然のように彼も姿を表した。
毎年そうだった。ドラえもんのジャイアンのように、でっかいお腹と態度で、教え子の飲み会の場で、ふんぞり返っているのだ。たいてい、最初から飲んでいて、最期まで飲んでいた。私と話すときは、いつも研究の話だった。私は、しつこい彼に少々面倒も感じながら、何時までも、そんな話ばかりをしていた。

そんな彼も、津波で死んだということだ。
さんざん、人のうちのウニを食い、魚を食い、挙句の果てに、故郷でもないこの土地で海に飲まれるなんて、何の冗談にもなっていない。その上、私の故郷の人間を、誘導していて波に飲まれたなんて、あの人らしくない。腹がでかくて、足が遅いんなら、逃げるべきだった。自分にも、ふるさとがあって、支えるべき両親がいるのだろうから、その人達を悲しませないように、するべきだった。どうかしていると思う。ちっとも、理性的では、無いと思う。ひどい話だと思う。身勝手だと思う。

私は、あの人より賢くなって、中学校の時のように、またひけらかしてやろうと密かに楽しみにしていた。しかし、おかげでそんな目論見も、なにもかも、流されてしまった。あの人の好きだった、地元の深い海のために。

あの人に、今こそ言ってやろうと思う。
「青は藍より出でて藍より青し」しかし、藍なくば青はない。

チキショウ。

2011-03-15

2011-02-14

卒業&進路

先日ついに博士課程の最終審査が終わった。

プレゼン30分、質問30分。審査員は5人、聴衆のいないクローズな発表会。

私めの発表内容はもちろんウナギの免疫系について。正直、あまりデータ量は多い方ではなかったと思うが、みなさん非常に興味を持って下さり、なんだか助かった。

その後、先生と今後の進路について相談したが、とりあえず今年度いっぱいはポスドクで、今もらっている学振が切れる頃に、次の研究室(国外?)に良ければ、というプランで行くことになった。

というわけで、今年一年はまだ北海道にいることになりそうです。

知り合い諸君、今年もよろしくー。

2011-01-15

Wanderwall-OASIS

Today is gonna be the day
That they're gonna throw it back to you
By now you should've somehow
Realized what you gotta do
I don't believe that anybody
Feels the way I do about you now

今日はついにその日だ。
奴らが仕返しにやってくる。
お前は自分の持っているものをとっくに悟っていなくちゃいけない
もう俺みたいにお前を思っているやつなんて他にはきっといないと思うぜ

Backbeat the word was on the street
That the fire in your heart is out
I'm sure you've heard it all before
But you never really had a doubt
I don't believe that anybody feels
The way I do about you now

バックビート、行き場もなく、
心の炎も消える。
お前は前にもきっと聞いたと思うけど、
ほんとに疑っちゃいなかったんだな。
もう俺みたいにお前を思っているやつなんて他にはきっといないと思うぜ


And all the roads we have to walk along are winding
And all the lights that lead us there are blinding
There are many things that I would
Like to say to you
I don't know how

俺達の歩く道はみんなねじ曲がっている。
俺達を導く光はみんなまぶしすぎる。
言ってやりたいことはいくつもあるんだが、
なんて言えばいいんだか

Because maybe
You're gonna be the one who saves me
And after all
You're my wonderwall

だって、たぶんさ、
お前がいつか俺を救ってくれるような気がするからさ
お前が結局、俺の行き着く先なんだ。

2011-01-13

初心

今日の夕方のことだ。

研究室のM2の女生徒が、襟元に淡いカーキ色のファーの付いた防寒着を着込んで、廊下ですれ違いざま私を見て、破顔一笑、「買って来ましたよ」と、右手に下げたスーパーの買い物袋を持ち上げた。

何が?と私は危うく聞きそうになったが、すんでのところで思い出した。
「楽しみにしてる」

自分でも意地が悪いと思う笑みを浮かべながら、作業スペースへ向かう彼女の背中を見送った。


遡れば、先週の金曜日の話になる。

今の時期のM2といえば、就職活動の最中であることのほうが多いのだろうが、幸い彼女らは早めに内定がもらえたようで、比較的、時間に余裕があるようだった。週末でもあったし、手の空いているひとだけで小さな飲み会を開くというので、私も誘われ、他の後輩と4人ばかり連れ立って出かけた。

行った先は近所にできた新しい店で、4人のうち誰も入ったことのない店だった。私たちの入ったときまだ他に客はおらず、たった一人しかいない若い店主は、「いらっしゃい」と待ちくたびれていたかのように威勢よく声をかけた。ヒップホップでもしていそうな調子の外見とは裏腹に彼は愛想良く、食べ物も比較的安価で、良い雰囲気の居酒屋だった。

ビールに、店主の勧めるまま、地場の刺身などをつまみにしながら、4人でしばらく和やかに語り合った。強い弱いの差はあれど、4人とも酒は好きな方なので、左手は休むこと無く働き、話題はめまぐるしく変わった。そして興味はやがて、普段の食生活に移った。

4人のうち、その女生徒を含む2人の学生は自宅から通う学生であり、私ともう一人がアパート暮らしだった。

「就職が決まったから、勤務地によっては4月から一人暮らしです」女生徒は言った。
「……初めてなんですよね、一人暮らし。この年になって」

「料理なんて作れんの?」からかい半分に自宅生の後輩男子が言った。彼は料理は比較的得意だと言っていた。「作れますよ!」彼女はそう主張したが、「でも、家にいると作る機会もないし、いつも作っているわけではないです」とすぐに引き下がってしまった。

「彼氏に作ったりしないの?」また別の誰かがそういじわるな質問を投げつけると、
「んー、」と彼女は困ったように笑って、「あんまりしたこと無いなあ」と言うのだった。
「実験してる様子からみると、料理は作れそうだけど、思い切り良さそうだよね」
私は彼女の実験する様子を思い出しながら言った。彼女は何をやらせても比較的上手だが、込み入ったところは大幅に省いてしまうような、大雑把なところがあった。

「そうかも知れないです」彼女は笑いながらあっさりと認めた。
「……将来のために、作れたほうがいいとは思うんですけど」

それでは、ここにいるメンツのために、一度作ってもらおう。誰が言い出したか、話は自然とそんな方向になった。「機会がないなら、予算を決めて水曜日あたりに、与えた課題の料理を作ってもらえばいいんですよ」料理の得意な後輩はいたずらっぽくニヤニヤ笑いながら、そう言った。「どんなものが出てきても、僕達で食いますから」

「ホントですか~」彼女は困ったように笑ったが、「それなら、ほんとうに作りますよ」と言い出し、どうやら思ったより乗り気のようだった。

「そう?じゃあ、やってみてよ」その反応が面白かったので、私はあおるように言った。「一回目は、……そうだなあ……。とりあえず『ハンバーグ』、で!」
私はハンバーグという料理に、特に愛着があるわけではない。だが、初心者の腕前を見る料理としては最適な様な気がしていた。そこそこに手順が多く、手際の良さも要求され、工夫の仕方も五万と存在する。だが、料理本などを見て、着実に基本を守れば、それほどひどい失敗もしない料理だという印象があった。

「ハンバーグですか……」グラスに半分ほどのピーチフィズを持った彼女は、どことなく不安げだった。

「作れる?」念を押すように私が言うと、彼女は意固地になったのか、「作れますよ!」はっきりと言ったのだった。

こうなれば、もう実行しない根拠はない。
彼女が料理を作るという件は、こうして満場一致で決まったのであった。

だが、話がまとまってからも、彼女は少し不安だったらしく、時折、小声で、
「ハンバーグって、合い挽き肉ですよね……」などと言っているのが聞こえていた。しかし私は、そこはあえて、聞こえないふりをして過ごした。


飲み会の決まりごとというものは、その時はどれほど乗り気であっても、次の日酔いが冷めてしまえば、一緒に興味も萎えてしまい、面倒な気分だけが、残ってしまうものだ。しかし、彼女の決意は、どうやら本物であったらしい。

その日、廊下ですれ違った私の前に彼女が差し出した買い物袋の中身は、パン粉と、ソース類と、二種類のひき肉であった。

彼女の買い物に付き合わされた料理好きの後輩男子曰く、調理過程は見ないほうがいいということだったので、私はその調理部屋に、一歩も踏み込まないつもりでいた。

しかし、こういうものは、調理過程にこそ面白みがあるというものである。本来であれば、一部始終をカメラで収めておいて、後でメイキング映像でも編集して、永久保存するべきものであろうが、それをするには事前の準備が足りなさすぎた。

私は彼女が食材と格闘している間、そこからは二部屋ほど離れた実験室にこもって、動かないようにしていた。だが、それでも、どうしても気になるものは気になる。とうとう、一度だけ禁を破り、私は彼女が調理する様子を部屋の外の窓から見てしまった。

それはおそらくは、鶴の恩返しのおじいさんが、機織り中の鶴を見てしまった心境に似ていたのかもしれない。あるいは、冥界に行ってしまったイザナギをこっそり見てしまったイザナミの心理もこのようなものだったのだろう。多分にもれず、その結果も似たようなものになった。

私は告白する。私は、包丁を体に平行に使う手法を、生まれてはじめて目の当たりにした。彼女は目の前の、まな板に乗った玉ねぎを、肘を不自然に上げ、脇を開いたような格好で、包丁を体に並行にするようにして切り刻んでいたのである。それは、一般にいう、みじん切りを想定しているようであった。その光景は、30年近くの人生の間に、私の中に蓄積した常識という名の澱を、全てことごとく、見るも無残にすっからかんに洗い流した挙句、積み上げてきた固定観念すら、レゴブロックに墜落したロケットミサイルよろしく、ボッコボッコのぎったぎったにして余りあるほどの衝撃であった。

彼女はどうやら、本当に、料理を作ってこなかったようだ。
私は今や、すべてを悟った。

これは、ハンバーグを期待してはいけない。たとえ、ハンバーグという名のひき肉炒めが出てきたとしても、私は笑って、それを食うべきであると。


それから、呼び出しがかかるまでの間、私は蛇に睨まれ諦観したカエルのようにおとなしく実験室で論文を読んでいた。研究室の大きく開いた窓からは、雪の積もった外の景色が見えた。昨日までの天気がうそのように、空は晴れて清々しく、飛んでいこうと思えば、どこまでも飛んでいけそうな青空であった。真冬日の冷え切った空気が街路に蓄積した白雪を引き締めて青い光を放っていた。一点の曇りもない、青と銀に彩られた風景が、私に現実に立ち向かう覚悟を決めさせたとしても、それはあながち嘘ではない。涙など、今日は用意してこなかった。

私はそうして、大分覚悟して戦場に臨んだのである。しかし、結論から言うと、そのような私の心配は全て杞憂であった。
出来ましたよ、という呼び出しに駆けつけてみると、そこには「ちゃんとした」ハンバーグが並んでいたのである。ちょうど、彼女の手のひらのくらいの大きさであろうか。やや小ぶりで、不揃いではあったが、焼き目は揃っていた。そればかりか、彼女はハンバーグを作れば良い課題であったにもかかわらず、目玉焼きまで用意していたのだ。これはつまり、いわゆる「ロコモコ」である。

「……すげえ」私は思わず、素直に褒めてしまった。「すごいですか」彼女はそう言っただけだったが、その表情はどこか得意げだった。

飲み会の時の4人と、その場にいたほかの学生と一緒にロコモコを試食させてもらったが、味は合格点だった。私だけでなく、一緒に試食したほかの後輩もみな一様に驚き、満足した様子であった。
「これだったら毎週作ってもいいですね」作った本人は調子に乗って、そんなことも言っていたが、そう言われても笑って許してしまえるほどの出来だった。


彼女の作った料理を食べていて、思い出したことがある。
私は、以前、料理のあまり上手ではない女性にポテトサラダを作ってもらった男の短い話を書いたことがあった。その話の中で、主人公の男は、味の薄いそのポテトサラダに、彼女の考えすぎなくらいの思慮を感じて、「やさしい味だった」と評してしまうのだが、私は彼女のこの挑戦を見ていて、それに近いものを感じてしまうのであった。

おいしい料理や、上手な料理というものは、キリがないほど無数に存在する。それはちょっと料理を勉強した人間であれば、いずれ作れるようになるものだし、他人に頼んで作ってもらうことも、それほど難しいことではない。しかし、誰かに食べさせたいと強く思って作られた料理というものは、この世の中に、それほど多くは存在しないのではないだろうか。

彼女の作ったハンバーグは、冷静に観察すれば、技術的に未熟なのは否めない。形は不揃いであるし、火はやや通り過ぎていてせっかくの味を逃がしてしまっていた。もっと上手に作れる人間はこの研究室だけでも何人もいるのだろうし、彼女の作ったものをとりわけ褒める根拠は、そう考えると全くないのかもしれない。

しかし、料理が得意ではないと自認していた彼女が、作ったこともない料理を一から勉強し、食べる相手のことを考えながら、少しでも褒めてもらいたいと、一生懸命に作ったことにこそ意味があるのだ。作業時間は最初から計ってみると、2時間をゆうに超えていた。

この味を出せる人間が、世の中には、どれほどいるのだろう。こなれた上級者の作業の中に、果たしてこの味はあるのだろうか?料理学校の洗練されたレシピは、この味を効率よく再現することができるだろうか?

いつか料理の腕前が上達し、彼女にとって料理が作業になった瞬間から、この味は彼女からも容易く失われてしまうのだろう。そういう意味で私は夏の自然氷のように貴重で、切ないものを味わったような気がしている。

いつか彼女が一人前の女性になり、親になったときに、歯が生え立ての息子の離乳食の中に、好き嫌いの多い娘のための不思議なコロッケの中に、親心をくだいたようなこの味が残っていることを祈りつつ、私は空になった椀に自らの箸を下ろした。