2011-04-16

現地報告に潜む危険

【デイリー南三陸 編集後記】更新分

避難所からの報告で、「〇〇には支援物資のダンボールが山になっている」というものがよくある。

こうした報告を目にすると、我々はつい、「あ、それではここは物資が足りているのだ」と判断してしまう。

しかし、少し待っていただきたい。

「そのダンボールの中身が、食料なのか、毛布なのか分からない」現地に入った方がそう話していた。「リストでも作れればいいのかもしれない。しかし、そんな暇は、被災地の誰にもない」

避難所には今、数百人を越える人間がひしめいている。つまり、集まる物資は、数百人分の生活物資だ。今まで、各家々に届いていた家財が、一軒の家に届き始めたと考えれば、その規模がわかるだろう。

リストをつくろうにも、右から左へ消費されていく。大手運送会社のような、物資の配送センターの機能を現場のスタッフに求めるのは酷だ。彼らの多くも被災者で、休日など知らない生活をしている。ボランティアとて、それは同じだ。

現地からそのような報告が来たら、まずは考えてもらいたい。「その報告の、ダンボールの山の中身は、一体なんなのだろうか。物資は本当に足りているのか」と。

2011-04-09

孫正義やアントニオ猪木でない僕らに出来ること

孫正義やアントニオ猪木のような著名人の、スケールの大きな援助を見ていて、僕らのような、家族が被災している一個人にどんな援助ができるのか、考えている。

基本的に、僕らには、大きな避難所の需要を満たすような援助は難しいし、それを可能にするような行動を取れるだけの時間もない。残された家族を守るために、今仕事を失うわけにはいかないのだ。

そうなれば、僕らにできるのは結局のところ、自分の家族を含め、自分に近しい人の安全や健康をとにかく守りぬくことぐらいしか無いのではないかと思っている。街の復興はもちろん目指すところだが、それは、特に僕らの場合には、この路線の延長線上にあるのではないかと思っている。少なくとも、逆に街全体に援助を続ければ、家族も守れるかといえば、現状として、それは期待できないだろう。

では、それぞれが、個人個人に行動すれば、それでいいのかといえば、そうでもない。被災した家族の援助をするにはたくさんの情報がいる。り災証明の発行、その他契約の解除、変更。もしかしたら被災者は物資を安く買えるような場合も出てくるかもしれない。僕らはこれからも常に、アンテナを巡らし、情報を集め、そして、家族を守らなくてはいけないのだ。

だからこそ、ツイッターや、ネット上でのつながり、そして、最終的には個人間のつながりが重要なのだ。手続きの開始に関する情報や、安売りなどを含めた、有用な情報を、些細なことでもupしてもらえれば、それで、自分と同じような境遇の人々の、家族が助かることになる。
それが重なれば、結局は街全体の援助につながっていくのだ。

自分が、家族のために、どんな援助をしたか。
その報告はこれから特に重要な報告になるとおもう。

2011-04-03

南三陸思い出写真館計画

震災でアルバムを無くした人のために、みんなのパソコンに残っている昔の写真を、少しずつ集めて共有しよう!というこの企画。

賛同してくださった方のアルバムへのリンク先を現段階でまとめました。
懐かしい一枚があるかもしれませんよ。


・@freeminds88 さん 
歌津町おもひで写真アルバム 歌津の写真を、南三陸町の写真を。少しでもと思い作成。写真の提供は、私とそして我が最愛の従姉妹という名の家族から。でも、顔をネット上にあげてもよいのか確認を撮っていないので、今回は風景写真と顔の映っていない写真をアップロードしました。


・@wildglass さん 
南三陸町戸倉の写真 2007年の祖母の家とそのまわり。今回の震災で全て流されてしまった場所です。 写真に写っている人は避難していて無事です!おばあちゃんと親戚と私の母。寄りの写真が多いのが悔やまれます。もっと景色撮っておけばよかった、、、

・@ab0727_chisan さん 
南三陸町-帰省時にいろいろ撮ってました。日付はバラバラです。写真見つけ次第、追加していきます。

・@urebass さん 
2003年4月 ウニの開港- 2003年4月に帰省したときに、ウニの開港に同行しました。波伝谷の坂本漁港から出港し、椿島(青島)の近辺が漁場です。漁をしているのは、父と祖父母です。今となっては貴重な資料かもしれません。
2001年3月 実家にて-大学を卒業。就職が決まり、上京準備のためにしばらく実家に滞在していたときに撮影。
2002年8月 帰省時撮影-2002年の夏に帰省したときに撮影。
2008年6月 帰省時撮影-初めて嫁様を実家につれて帰り、親に紹介しました。一応、観光名所巡り。荒島、ホテル観洋、神割崎。

・@f_miho さん
「戸倉思い出アルバム」 - 戸倉保育所・戸小・戸中・同窓会の写真を載せています。

・@tohruk1117 さん 
「戸倉長清水アルバム」 - 前半は藤浜小学校、後半は戸倉中学校の写真です。

・@YYOI  
南三陸町思い出アルバム - 津の宮の風景とじぶんち

今後とも投稿があれば追加します!
よろしくです!

猪又先生写真募集

twitter @nya_goさんが猪又先生の写真を募集しています。

つぶやきから抜粋します。

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「ある程度集まったら、猪又君の映っている写真をご両親にプリントして送ってあげたいのですが・・・彼はいつもカメラマンなので、彼の映っている写真がほとんどといっていいくらいないんだそうです。」

「どこかにまとめてアップしていただいたら、わたしのほうでダウンロードしてプリントして送ります」

「カメラとノートパソコンは、津波にのまれて塩吹いてました・・・今年の卒業アルバムは濡れたけど無事でした。」

「お母さんは、卒業アルバムの写真=遺影ではじめて彼の顔をまじまじと見たって繰り返していました いつもそこに寝転がってるのを何となく見たことしかないって。
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そこで、猪又先生の写真を募集します。
持っている方は以下のアドレスに写真付きのEメールを送ってください。

106216648354764653939.innosin0□picasaweb.com

□に@マークを入れてください。

本文は空で、件名に、送信者とその写真についての簡単な説明(2000年の運動会、など)があると助かります。

(送ったことをmixiのメッセージかツイッターで知らせてくれるとなお助かります。写真サイズは出来れば1M以下に小さくしてね!)

送られた写真は順次、手作業で以下のアルバムに移します。

「猪又先生写真」 
https://picasaweb.google.com/106216648354764653939/orEARI?authkey=Gv1sRgCJf596fg0oilnAE#


よろしくお願いします!

2011-04-02

縮み上がることが復興につながるのか?

デイリー南三陸編集後記
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東京ではすでに桜が見頃を迎えているようだ。被災地東北の春はまだ遠いが、それは確実に近付いている。泣いても、笑っても春は来るものだ。自然は冷淡で、そして誰よりも温かい。

さて、 どこかの知事が、このご時世だから、花見などするべきではないとコメントしたという話がニュースになっていた。また、テレビ東京が報道体制を通常に戻し、アニメを流したところ、苦情の電話が600件も来たという。被災地を想い、苦しみを共有するという暖かさは感じるが、ここではあえて、そんなことはするべきではないと言いたい。

日本の約半分近い地域が被災した今回の震災において、東日本の経済活動もほとんど停止した状況にある。こんな状況で、さらに経済を動かさずに縮み上がっていたなら、一体誰が、この苦境からの復興を成し遂げられるというのだろうか。復興には多額のお金がかかる。 そのお金の大半を拠出するであろう国も、我々の経済活動から税金を得て活動できる組織である。 円滑な復興をもたらすためにも無事だった地域の人々は、どんどん働いて、お金を稼がなくてはいけない。

知事のコメントやテレビ東京への苦情は「被災地を忘れるな」という声の表れでもあるだろう。その点は共感する。長い時間がかかるこの復興で最も大切なのは、常に一定の関心をこの件に持ち続けていることだ。被災者やその支援者、メディアはそれを意識し、震災を忘れられたものにしないよう、努力し続ける必要がある。

復興とは、つまりは日常を取り戻すことだ。視聴者に心の傷を追わせることすらある、震災対応の物々しい報道が、春の訪れを告げるニュースや、楽しい番組に置き換わっていくことは、必ずしも悪いことではない。