明日全学停電だって言うし、
あさってには実家に帰ろうと思っているので、
今日は控えめにcolony-PCRだけ。
天気がいいから、外へ出よう。
学校へ出てくる前、家でぼんやり考えた。
理学者は、日本にあふれかえる幾多の仕事の中で、
実はもっとも、“サムライ”を現代に引きずっている仕事の一つかもしれないと。
たとえば理学者にとって、
手技 (method) は剣だ。
その腕前のほどしだいで、雇い主が現れるかも、現れないかも決まってしまう。
要求された仕事を、確実にこなせるか。それも、その剣の腕前しだいだ。
自分の未来を、自分の手技で切り開く。
来るべき大仕事のために、自分の手技に磨きをかける。
それが理学者という仕事だ。
理学者にとって、論理は甲冑だ。
その実験結果が、いかに正当なものであるのか、
そして、どれほど深い真理を示唆するものであるのか。
それを生かすも殺すも、論理だ。
たとえ、その実験結果が、内外から、いかなる攻撃にさらされようとも、
堅い論理に守られた研究は、そうやすやすと打ち破れるものではない。
理学者にとって、論文は糧だ。
出した論文の数が多いほど、安定したポジションにいられる可能性が高くなる。
明日へ、確実に、自分と、その家族と、もしかしたら部下たちの命をつなぐことができる。
“研究室”は、いわば、論文 (paper) で支えられた城なのだ。
糧のない城は長くはもたない。
データの出ない、不毛の時期を乗り越えるまで、篭城できるかどうかも、
それまでの糧の蓄積にかかっている。
理学者にとって、夢を見ることは、良い馬を得るようなものだ。
自分の研究の完成を夢見て、たとえ、インドアな研究者であっても、
街から街へ、あるいは、海を渡り、国境すら越えて、さすらうことができてしまう。
馬を持たなければ、その旅の範囲はおのずと狭まる。
世界に眼を向ければ、できたはずのことが、
狭い範囲しか見ていなかったばかりに、できなくなることも多い。
良い馬との出会いから、その道が開けることもある。
走り回る馬の背中にしがみついているうちに、
良い剣や、良い甲冑にめぐり合うこともあるだろう。
そしてそれはやがて、明日への糧を得ることにつながっていく。
貧相な剣で、身を守る鎧すら満足にもっていない自分は、
自分の乗った馬を信じて、突き進むしかない。