2007-08-25

紙の城

【今日やったこと】
明日全学停電だって言うし、
あさってには実家に帰ろうと思っているので、
今日は控えめにcolony-PCRだけ。

天気がいいから、外へ出よう。

◇◇◇

学校へ出てくる前、家でぼんやり考えた。

理学者は、日本にあふれかえる幾多の仕事の中で、
実はもっとも、“サムライ”を現代に引きずっている仕事の一つかもしれないと。

たとえば理学者にとって、
手技 (method) は剣だ。

その腕前のほどしだいで、雇い主が現れるかも、現れないかも決まってしまう。
要求された仕事を、確実にこなせるか。それも、その剣の腕前しだいだ。

自分の未来を、自分の手技で切り開く。

来るべき大仕事のために、自分の手技に磨きをかける。

それが理学者という仕事だ。


理学者にとって、論理は甲冑だ。

その実験結果が、いかに正当なものであるのか、
そして、どれほど深い真理を示唆するものであるのか。

それを生かすも殺すも、論理だ。

たとえ、その実験結果が、内外から、いかなる攻撃にさらされようとも、
堅い論理に守られた研究は、そうやすやすと打ち破れるものではない。


理学者にとって、論文は糧だ。

出した論文の数が多いほど、安定したポジションにいられる可能性が高くなる。
明日へ、確実に、自分と、その家族と、もしかしたら部下たちの命をつなぐことができる。

“研究室”は、いわば、論文 (paper) で支えられた城なのだ。

糧のない城は長くはもたない。

データの出ない、不毛の時期を乗り越えるまで、篭城できるかどうかも、
それまでの糧の蓄積にかかっている。


理学者にとって、夢を見ることは、良い馬を得るようなものだ。

自分の研究の完成を夢見て、たとえ、インドアな研究者であっても、
街から街へ、あるいは、海を渡り、国境すら越えて、さすらうことができてしまう。

馬を持たなければ、その旅の範囲はおのずと狭まる。
世界に眼を向ければ、できたはずのことが、
狭い範囲しか見ていなかったばかりに、できなくなることも多い。

良い馬との出会いから、その道が開けることもある。

走り回る馬の背中にしがみついているうちに、
良い剣や、良い甲冑にめぐり合うこともあるだろう。

そしてそれはやがて、明日への糧を得ることにつながっていく。

貧相な剣で、身を守る鎧すら満足にもっていない自分は、
自分の乗った馬を信じて、突き進むしかない。

2007-08-22

平日ビンボー

【今日やったこと】
...。プライマー、今日も来なかった。
『明日には届きます』だって。

あまりに予想外だったので、『遊び行っちまおうかな~』とは言ったものの、
実際にそうする度胸は無く、日がな一日、論文を読む (ふり)。

お昼過ぎに、大学の農場で取れた新品種のとうもろこしが茹で上がる。
実の皮が薄いらしく、いつものやつより、さくさくしてて、やわらかくて、うまかった。

今日の昼間、研究室は人が少なかったので、自分と秘書さんで、二本食った。
◇◇◇


あんまり暇だと、かえって不安になるので、無理やり仕事を見つけて、とりあえずいつもあくせくしているような人は、一般に『貧乏性』と呼ばれる。私なぞはまさにこれだ。

貧乏性はその名の通り、損な性格だ。せっかくできた余暇を存分に満喫することができず、いつも仕事をほっぽらかしてる罪悪感を引きずっている。

今日なども、先生方は大方外出していたし、天気も良かったので、本当にその気さえあれば、外に出て、平日の街の独り占め感を満喫する手もあったのだが、結局できなかった。

忙しい、忙しいといっていた先輩がいつの間にか外出していたというのに...。なんだか負けた気がする。

ただし、だからといって、貧乏性の人間が無理して外出したところで、外の空気に触れたとたん、たちまち罪悪感に打ちひしがれ、一歩ごとに足取りは重くなり、忘れても良いような些細な仕事が走馬灯のように脳内を駆け巡り、とても、棚から牡丹餅の休みを満喫など、できっこない。

そういう小人物は、あえて見えはって無理をせず、こそこそ論文を眺める振りでもしながら、外の澄み切った大空を、ただぼんやりと、眺めているくらいがちょうどいい。

いずれにしろ、今日は静かな一日を送れた。まあ、いいのかな。
最近生活も不規則だったし、ニュース番組もまったく見れてないから、世の中のことに疎くなった気がするし。早めにちゃーんとおうちに帰って、のんきな一日の続きを満喫してみようかな。

その名はナナコ

【今日やったこと】
新しい実験系を立ち上げようと思って、大量のプライマーを発注したら、
ものすごい勘違いをしていたことがわかって、1/3が無駄になったことがわかった。

でも、業者さんが何かトラブルを起こしたらしく、納期に間に合わない、という電話が入り、無駄になった1/3のうち、いくつかについては取り消してもらえた。

ラッキーといえばラッキー。でも、その分実験が遅れる...。
◇◇◇


もうすぐ遅い夏休みをとるつもりであり、どうしても、キリのいいところまでは実験を進めておきたいので、ここ二三日は、無理やりやる気を振り絞っている。

今日も、そんな必要は無いのかもしれないが、
深夜まで実験する腹をくくったので、セブンイレブンに出かけ、晩飯を買ってきた。

最近のコンビニは便利なもので、大概のところで、何らかの電子マネーが使える (北海道限定の、『セイコーマート』は例外)。

今日行ったセブンイレブンも、最近になってナナコという電子マネーを独自に始めて、キリンのお嬢さん (たぶん。だって、名前に“コ”がつくから) がCMをやっておられる。

私は根っからのあたらし物好きであり、特にこう言う“テクノロジイ”には眼がないので、ナナコは登場直後のキャンペーン期間中に、偶然立ち寄ったセブンイレブンで、衝動的に加入してしまった。

どうやら、何人加入させよ、といったノルマが店ごとにあるらしく、私のあまりの衝動的な加入ぶりに店長は興奮し、
『何かあったら、いつでもご相談ください!』
と、気恥ずかしいほど親切な言葉を送ってくださった。

しかし、いかに私が新し物好きといっても、さすがにこれはお金を預けるものであり、かなりの警戒感がある。したがって、はじめはとりあえず1000円だけ入れて、様子を見ることにした。

生まれて始めて鏡を見た、野生のチンパンジーでも、ここまであからさまな警戒はしないであろう。


そうして、いよいよ、そのナナコを使う段になった。しかし、いかんせん、“始めて” というものはとにかく嫌なもので、全ての動作がぎこちなく、わずらわしく、気恥ずかしい。レジの前に立ち、いつものように、メロンパンと、何らかの脂ぎったパンと、野菜ジュースを置くと、店員さんがせわしなく、商品を手に取り、せっせせっせとバーコードを読み取り始める。

105円、255円, 360円...。作業が進み、レジのカウントはぐんぐんあがって行くのに、1000円の入ったナナコを取り出すタイミングがわからない。気づいたころには、店員さんはおもむろに袋に物を詰め込み始め、まだ金ださねーのかよ、といった顔で、上目遣いに、こちらをちらちら伺っている。

結局、私はありもしない男らしさを発揮し、つりなんて怖くねーぜ、とばかりに、1000円札をひょいと指し出し、後はそっぽを向いていた。

おつりを出さないナナコに加入していながら、余計なつりをもらってしまった。

その後も、同じような体験を三度と無く繰り返した。時にはちゃんと“これ使いたいんですけど”と言ったこともあったが、そういうときに限って、店員さんのほうが慣れておらず、あたふたして、かえって面倒になったことも多々あった。


しかし我々は人間であり、テクノロジイなぞにまけるものかと、無駄な負けじ魂を燃やし、工夫に工夫を重ねるものである。


かく言う私も、いまでは、ナナコをほぼ確実に使う、“テクニック”を身に着けて居る。

何のことは無い。レジに行く前に、ナナコを財布から出しておき、
いかにも『わたしこれ、つかいたいのですよ』という、無言のアピールをしておけばいいのである。

すると店員さんも、それを以心伝心感じ取って、何かしらのボタンをぽちっと押して、レジをナナコモードへ切り替えてくれる。

後はカードをかざし、ジャリーンと鳴らせば、もうそれで、あなたも近代的消費購買者の仲間入りである。


最近の日本人は、昔に比べて会話が減ったといわれる。

確かに、自分の小さいころを思い返してみても、小さな商店で買い物する時には、必ず店のおばちゃんと二言三言くらいの会話はしたものだ。

今のコンビニのレジでは、その二言三言の会話すら欠如していると、昔、どこぞの評論家がおっしゃっていた。

ナナコを手に入れて、その結果は、結局、無言の“アイコンタクト”だった。お金を受け渡しする際の、心ときめく、かすかなふれあいすら、我々はついに失ってしまった (残念な場合だけとも限らないが) 。人間はいよいよ進歩しているのか、劣化しているのかわからない。

そのうち、眼だけで、レジが済んだらいいのに。

それから、ナナコの残金が、もっと簡単にわかるようにしてほしいです。

テクノロジイの未来に、終わりは無い。

次は、空港の、チケットレスサービスを試してみる予定。しくじったら、大きいよなあ。

2007-08-18

科学書発行部数倍増計画 (仮)

【今日やったこと】
クローニングしたコンストラクトにインサートが入っているかを調べるためにダイレクトPCRをしてみたら、なぜかまったくバンドが見えず (おそらく、二日酔いの吐き気の合間にやったせい。すべて、最後に飲んだ“ボウモア”の責任)、しょうがなく制限酵素処理中。
どうなることやら。

◇◇◇


今、科学系の本では珍しく、紀伊国屋売り上げトップ10にちらちら現れている新書がある。

『生物と無生物のあいだ』 という本で、著者は青山学院大の教授、福岡先生。売り上げがいいだけあって、本屋で見ても、確かに入り口のそばに平積みされていたりするし、ずっと気になっていたのでついに買って、読んでみた。

内容は...。わかりやすい、生物入門書、といったかんじ。

生物学の面白話満載。ワトソン・クリックのDNA二重らせん構造発見にまつわる黒い話、PCR見つけたサーファーの話、遅咲きの (そして未婚の) 学者のホシ、DNAが遺伝物質であることを証明した、アベリー大々大先生の話等々。

おそらく、こっちの方面に興味のある、ちょっとおませな高校生くらいなら、すらすら読めてしまうんじゃないかと思う。


この本の帯には何人かの著明な方々がコメントを寄せている。

そのなかに、 “福岡さんほど文章のうまい科学者は稀有である” と、あのNHKの某番組で、時々科学者らしくない (人間味のある?) 質問をぶつけておられる、脳科学者の茂木健一郎さんが書いている。
自分も読んでみて、確かに、学者にしては読みやすい、読者を飽きさせない書き方をされる方だとは思った。

こう言う業界に一応浸っている人間が言うのもなんだが、どうしても、科学というやつは一般から見て敷居が高いし、科学の本を読もうという気も起きないという人が世間にはざらにいる。

文学者じゃなくても、純文学の小説は読むが、科学者じゃないのに科学の本はなかなか読まない。

ブルーバックスや、その他の新書ががんばってはいるが...。100年近く前の『羅生門』、『坊ちゃん』が平積みされる一方で、科学書は、たとえ新刊であっても、棚の隅に追いやられていることが多い。

(最悪の場合、いわゆるエロ小説のカモフラージュに使われていることもある。つまり、科学書のような堅苦しい本の向かい側にエロ小説をおくことで、体の向きをとっさに裏返すだけで、先ほどまで、そういった“こはずかしい” 本を注視していたということを隠せてしまうのである。どうせそういう時、男子の顔はいずれにしろまじめ腐っているか、しかめっ面のことさえあるのだから、顔の表情すら、変える必要が無い)

そんな、どこまでも肩身の狭い、虐げられた科学書業界の中で、こういった“伝える力”のある先生というのは非常に貴重な存在だと思う。


一学生が、こんなたいそうなことを言うのもなんだが、自分は大学の先生は、専門課程の先生と、教養専任の先生に分離すべきだと思っている。

大学3,4年といった、専門家を養成する時期には専門課程の先生が、それ以前には、教養の科学の先生が教えるべきだ。

教養は、他分野の学生に、異分野を知ってもらう、おそらく、最初で最後の機会であるから、そこに、わかりやすく、面白く、科学を伝えられる先生を専任させれば、もっと、科学ってやつもポピュラーになるんじゃないかと思う。

必ずしも、バリバリの研究者で無くったってかまわない。科学の成り立ち、そして最新の科学を理解し、教える、伝える能力に長けていることが重要なのだ。

また、一般にもっと科学を伝えるためにも、そういう、伝えることを得意としている科学の先生がいれば、ずいぶん変わるのではないだろうか。

まあ、茂木さんが“稀有である”って言ってんだから、福岡さんのように読める科学書を書ける人材は、よっぽどいないんだろうけどね。
グールドとか、ドーキンスとか、ファーブルとか、シートンとか、カーソンとか、日本人だと多田富雄さんや、柳澤桂子さんとか、そういう 『ものを書ける』 学者がもっと出てほしいし、自分もちょっとあこがれる。


ちなみに現在は先日亡くなった心理学者の河合隼雄さんの 『昔話と日本人の心』という本を読んでます。昔話から、日本人の深層心理を読み解こうという、野心的な作品。


ユング派っておもしれー。

2007-08-16

盆考

【今日やったこと】
ライブラリーからスクリーニングした遺伝子をカルチャーして
ミニ・プレップして、シーケンスを読んだ。カタカナまみれの一日。

最近シーケンス読みすぎ。試薬、ゲル、底をついた。
でも、お盆休みだから、業者さん、来ないんだよねえ。

◇◇◇

お盆は、あの世から先祖の魂が帰ってくる日だということで、
その魂を一家全員で迎えるために、その子孫も里へ帰っていく。

東京、特に都心は、お盆の時期、もぬけの殻だという。
ドーナツ化現象で、人もいなければ、スズメもいない、といわれた都心だが、
どうやら、魂すら、そこにはないらしい。

(『ドラえもん』のエピソードの一つで、未来へ行ったのび太が、人っ子一人いない無人の町へたどり着く。のび太はそれを見て、未来には人類は滅亡している、と思ってしまうのだが...。
実際には、街の人たちがみな、旅行していただけだった、という落ちがついている。今やそれも、ほとんど現実の話だ。)


空虚、妄想、背景の無い、張りぼて、そんな言葉が浮かんできた。
人工の、夢の、理想の、街。でも実は、そんなもの、存在していないのかもしれない。
あそこを、自分の街だと思っている人、あそこにどれだけ、いるのだろう。住民票を出し、一応住所として登録はしていても、自分のよりどころではない街。一時的な吹き溜まり。風向きが変われば、ふっとなくなってしまいそう。

(『智恵子は東京には空が無いといふ。本当の空が見たいといふ』 ― 高村光太郎『智恵子抄』)

その点、根っこのある田舎は強いよなあ。
何かあれば、とりあえず、人が帰ってくるもの。

2007-08-12

炎天夢想

【今日やったこと】
天気が良かったら朝から遠くへ出かけようと思っていたが、
寝坊して、起きたのはお昼近く。せっかく天気が良くなったのに、遠出できず。

仕方なく、また、前にカレーチキン何とかを食べたモスへまた行き、前のやつが期待したほど辛くなかった反省を生かして、スパイシーモスバーガーという、いかにも辛そうなやつを選んでみた。(別に、モスで辛いものを無理して食う必要も無いとは思うのだが)

今回のやつは、名に違わず、確かにちょっとは辛かった。が、モスバーガーの常で、せっかくのソースの大半が、みんな紙包みの中に落ちてしまって、なんだかもったいない気分になった。あれを上手に食べられる人は世の中に何人いるのだろうか。

最近コンポを買って、使ってみたくてしょうがない母親から、帰省前に何かいいCDを買ってくるように言われていたのを思い出し、お決まりのブックオフへ。小野リサのデビューアルバムというやつを買った。家に帰って聞いてみたら、予想していた、けだるい感じではなく、意外とアップテンポだった。まあ、でもなんか癒される感じはあるので、良しとした。

その後、北大植物園に行ってみた。
植物園という名前ではあるものの、実際には有料の緑地公園といった感じの広大な植物園だった。札幌都心の、ど真ん中に、あんな広大な公園があるというのは、考えてみるとすごいと思う。アイヌゆかりの植物などに気をとられていたら、ほんとに日が暮れてきたので、家に帰った。

今日は特に暑い日で、500mLのミネラルウォーターと、北海道名物“ガラナ”を一本ずつ空けてしまった。初めて飲んだガラナはなんだか懐かしい気がするけど、なんだったか、思い出せない味だった。

買い集めたいと思っていた数少ない漫画の一つ“プラネテス”をやっと全巻集めた。
著者の考えがまったく理解できないシーンも多いが、一応 SF で宇宙が舞台のわりに、話が内向的なので面白いと思って集めていた。

家に帰って読んでいたら、宮沢賢治を読みたくなった。
『春と修羅』読んだこと、ない。

『この変態を恋愛という』

すごくかっこいい。が、ここだけ抜き出すと、誤解されそう。
この変態は、あの変態のことであって、あんな変態のことではないよ。
(全文は、春と修羅『小岩井農場』のパート9を参照)
◇◇◇


今日、炎天下の街をさ迷い歩き、思ったこと:

人を幸せにする自信なんて、ちっともないや。
自分が明日どうなるかも、わからないのに。

ガラナが歩くたびに、バックの中でだぽんだぽん音を立てる。
空けるたびに、炭酸が噴出す。

炎天。

“どうせおいらはやくざなあにき”

やくざな商売だねえ、学者さんも。

家族連れ、親子連れ、老夫婦。
自動車を誘導する警備員、ティッシュを配るアルバイト、木陰を行く、カップル。

一方は車椅子。それを押す、女性の白く長い左足には、二足歩行と引き換えにひざの自由を奪った、二本の金属柱のフレーム。

男性が遠くを指差し、女性はそちらを向いた。
長い左足を、ぎこちなく振り回し、横断歩道を渡ろうとしている。

でも、なんか、楽しそう。二人とも。後ろからは見えないその表情は、たぶん、笑顔だ。

足取りは、すこぶる軽く。

太陽が照りつける。
世界が、白い。

芝生でねっころがるおじさん。
木陰で本を読む女性。

俺のしたいこと、していやがる。

知らない人の記念館に、入ってみる。

後から入ってきた二人連れ

『ここ、何?』

つまらないから、出た。

炎天。むっとした風が吹く。

カラスの寄り合い。
暑いので、みんな口をぱっくりあけている。

口をあけたまま、こっちをちょっと見て、
大急ぎで飛び立っていった。

なにもしないのに。

カラスの羽音、はねの虹色。時折、場所違いの、かもめの声。
海は遠いのに。

アメンボウを見ていた。

細すぎて、本体は見えないのに、
その影は水底に、手足に大きな“丸”を伴ってはっきり写る。

アメンボウのゆがめた水面の形。

アメンボウは、後ろ足はそのままに、前足を前後にすばやく動かして、入り口も出口も無い止水を進んで行く。

流れの無い水面に、波紋だけがのこる。

ガラナは歩くたびに、バックの中でだぽんだぽん音を立てる。
空けるたびに、炭酸が噴出す。

もう、帰ろう。

4時過ぎ、人通りが激しくなってきた。
なぜ?
あたりはまだ、こんなに暑いのに。

暑いから出たくない。休日出ないのはもったいない。

けちだ、みんな。働く人も、働かされる人も。働かない人も。

働けない人は、なんと言うだろう。

この夏の炎天。

アクエリアスを薄めて飲んだ。

甘さが最初に消えてしまった。ほしいものは、いつも最初に消えてしまう。
後に残るのは、薄いナトリウムと、マグネシウムのほのかな味。

にがじょっぱい。

深夜。夜風に救われるように家を出た。
大学病院の入院棟に、明かり。

働けない人は、なんと言うだろう。

眠ったような救急車。非常搬送口。エントランス。

熱帯夜。札幌の。じめじめする。

空にはペルセウス座流星群。見えるわけ、ないか。

遠く、ススキノの方向に、サーチライトが見える。

細すぎて、本体は見えないのに、
その影は水底に、手足に大きな“丸”を伴ってはっきり写る。

帰って、今日はもう、寝よう。

熱帯夜。札幌の。まだ、じめじめする。

2007-08-11

青春のうしろ姿を

【今日やったこと】
昨日、先輩と秘書さんが細々と飲んでいたのに混じって飲んでいたら、
あれよあれよと人が増えてきて、れっきとした飲み会になってしまった。

実験のため、少し席をはずして、また来てみたら、そこにはすでにほとんど空になった、
ピザの空き箱が二つほど転がっていた。

その後家に帰って、また少し飲んでしまった挙句、本を読み始まったらとまらなくなって、
気がついたら、カラスが鳴いていた (カラスは、明け方に鳴き始めるのです)。

未だに、大学の学部生みたいなことをしている。
若いんだか、成長してないんだか。

◇◇◇

心酔しているCMがある。

キリンラガービールのシリーズCMで、今やっている、松任谷由実のバージョンである。

このCMシリーズは、おそらくちょっと高い年齢層のおじ様、おば様をターゲットにしたもので、一昔前の名曲を次々に流している。確か第一作は、サディスティック・ミカ・バンドで、木村カエラが代理のボーカルをしていた。自分は、一昔前に、こんなチャーミングな曲があったことを、それまでまったく知らなかった。こういう企画は、もちろん直接のターゲットである、おじ様、おば様世代の方々には響くものがあるのだろうが、その子供の世代にとっても、新鮮な発見をもたらすものだと思う。

で、松任谷由実バージョンだが、木村カエラとは打って変わって、落ち着いたテイストのCMである。薄明のカフェ・ラウンジで、松任谷由美と数人のバックバンドが本番前のリハーサルをしている。やがて、夜の帳が下りる頃、穏やかな白熱灯に照らされ、静かに、小さなコンサートが幕を開ける。CMは2部構成で、本番を控えたリハーサルまでが1部、本番が2部である。

そして両編とも、バックには次のようなフレーズが流れる。

青春の うしろ姿を
ひとはみな 忘れてしまう

第二部では観客が、第一部では店のマスターが、このフレーズに聞き入り、ふと、われを忘れる。(後記。どうやらこれは記憶違いのようで、第一部で使われていたのは『卒業写真』だったようだ。この『あの日に帰りたい』が使われているのは第二部のみということになる。)

もちろんこれはCMであるから、その後に、バンドがみんなでラガーで乾杯、というシーンで終わるのだが、観客、ないしマスターの一瞬、歌に心奪われるシーンの表情がすばらしい。これら聴衆はみな、中年以降の、いわゆるおじさん、おばさんであって、青春という熱のようなものものから、いつの間にか遠くに離れてきてしまった自分に、この歌との再会でふと気づかされるという様子が、涼しげなメロディとともに迫ってくる。

自分はまだ人生経験の浅い人間であるから、この聴衆たちの表情に隠された深い哀愁を全て捉えることはできない。だが、青春というものから遠ざかり始める年齢に差し掛かっていると感じており、その苦い喪失感はなんとなく理解できる。

青春は一人の人間が、社会的に“誕生”する時期だ。親の保護を離れ、自我の下に何かを決め、何かを行う。しかし、いかんせん、生まれたてであるから、効率の良い方法など知る由も無く、見聞きするものに過敏なまでに反応し、常に何かにぶつかり、時には軋轢すら生じる。しかし、それでも生きようとする赤子のような生命力が青春にはまだある。

時は経ち、青春から遠ざかった人々は、それまでに培った経験により、すでに無駄な力を使わない、効率の良い生き方を見出している。物事に過敏に反応する感受性を失う代わりに、軋轢も、衝突も無い穏やかな日々を手に入れている。しかし、その時になって、ふと思う。今の自分は、何かを失っていないか...。

人の脳は新しい情報を好むという。そういう意味でも、見るもの全てが新しい青春は、苦しいことも多い反面、多くの感動と喜びに満ちた時代でもある。生きることに慣れてしまった人々は、ふいに、そういう青春のほろ苦い喜びや感動が懐かしくなるのかもしれない。


例えば、こういう青春時代の名曲を聴いているときなどに。

2007-08-08

あるこう、あるこう、

【今日やったこと】
ベクターを増やすため大腸菌を培養。
ところが、ほとんど取れない。キットの底のほうの残りかすみたいなのを
使ったのが、悪かったんかなあ。
お昼過ぎに、秘書さんにハーゲンダッツをいただいた。
同じアイスなのに値段は倍以上。同じバニラなのに、違うものみたい。
つかの間の幸せ。

夏の高校野球が、始まった。
◇◇◇


人の特徴が出やすいものは、いろいろあるが、歩き方、というのもその一つだろう。みんなそれぞれ自分の歩き方があり、その人の性格や、その日の気分によっても大きく変わる。せっかちな人は小股でせかせか歩くことが多いし、逆に大またでのっしのっしと歩かれると、おおらかな人、あるいは、貫禄十分といった印象を受ける。怪我をしていれば怪我をしているなりの、病気なら病気なりの歩き方がある。俳優さんなんかはそこをうまく捉えていて、役の性格に合わせて、歩き方をうまく変えたりしているようだ。また、案外親子で似ていることが多いのも歩き方だ。歩く後姿が親父そっくりといわれて、へこんだ経験があるのは、私だけではないだろう (ひざが力なく、かっくんかっくん折れるように曲がる)。

こんな話題を急に持ち出したのも、今日、すこぶる変わった歩き方の人に出会ったためだ。
生協の食堂でお昼を食べて、帰り道、自分の前を偶然歩いていた女の人の歩き方が眼にとまった。
その人は身長 150 cm 前後で、髪が腰近くまで伸びているが、少々ぼさぼさ。半袖にミドルパンツという、少年のような服装だったので、後ろから見ると絵に描いたような『野生児』だった。そのうえ、歩き方は、“完全な” ガニ股だった。いくら、サンダルを履いていたとはいえ (サンダルを履いていたから余計に)、あそこまでひざが外に向いたガニ股歩きをすることは無いだろうと思った。ペットボトルを右手に下げ、のっしのっしと歩くその姿は、幼いころに見た、“いなかっぺ大将” の主人公を思い出させた。自分は後ろからちょっと見ただけだったので、どのような風貌の方なのかは知らないが、どんな性格の方なのかは、なんとなく、わかったような気がする。少なくとも、繊細で控えめな、清楚な方では、ないであろう。

かく言う私も、世にもまれな “ヒザカックン歩き” の継承者なのだから、人の歩き方をあれこれ言う権利は無いが、変な歩き方だから余計に、他人の歩き方は気になってしまうのである。
(最近、靴の底が、外側だけやたらに磨り減っていることに気づいた。私はヒザカックンのみならず、重度のガニ股のようだ。)

“歩く”、という言葉は “人生を生きる” ということの比喩にも使われる。同じ道であっても、人それぞれ、いろいろな歩き方がある。ガニ股や内股やヒザカックンが、一つの廊下を、めいめいの歩き方で歩いている。多少の速い遅いはあるかもしれないが、自分の形で歩けるというのは、たぶん幸せなことだ。軍隊のように無機質に、形をそろえて歩くのは、たぶん、苦痛だ。

2007-08-06

すすきの祭り

【今日やったこと】
なんか、泳動ばっかりしてたら、飽きてくるし、
気分的に疲れたので、途中から論文読んでいた (ふり?)。
昔の先輩にメールでコンタクトとって、ネズミに注射する方法を聞いた。
25マイクロをネズミの足の裏に。だそうな。
今日は原爆記念日。“黒い雨”やっと読み終わった。黙祷。
◇◇◇


先日、研究室の同窓会があり、二次会ですすきの祭りに行ってきた。よく考えてみれば、夜のススキノにいくのは初めての体験....。そこはめくるめく、おとなと、ぼったくりの世界...。のはずなのだが、あくまでその日は“お祭り”。普段のアダルティーな雰囲気など雲散霧消しており、『ラッセラー』なんて、“よさこいソーラン”の掛け声に支配されていた。
ネオンサインも、ヨサコイにはかなわない。

すすきの祭りでは、普段はごちゃごちゃしたビルの中にあるいくつかの穴場的なお店が、屋台として露天で営業している。そのため、子供でもオトナでも、入りやすく、親しみやすくなっている。トイレのためにビルの中に入って思ったのだが、やはりこういうところは、普通の飲食店とおとなのお店が隣り合わせだったりするわけで、いかに健全なおいしいお店でも、ある時間を過ぎれば入りにくくなってしまう。この『屋台』という形式は、おとなのお店が嫌いな人にも、ススキノのおいしいお店を見つけてもらえる、いい策だと思った。

それでも、そこはやっぱりススキノで、たまーに、どう見ても、あなた、飲み屋のおねーさんだよね、って言う風貌の女性と、それを引き連れた恰幅の良いおじさまにすれ違うことが何回かあった。噂に聞く、“同伴”ってやつだろう。ごくまれにだが、サエナイサラリーマン風のおじさんが、同伴しているケースも見た。あれは、どういう仕組みになっているのか、疑問だ。

店はあまりの客入りのため、自分たちは座る席が無かった。しょうがなく、4人で水溜りを避けながら路肩に腰掛け、4くし五百円の串焼きを食べつつ、何で、あんなのに金をつぎ込むんだろう、という疑問を打ち消せないまま、目の前を行過ぎていく魑魅魍魎たちを、只々、見送っていた。


から揚げ串と、とんとろがおいしかった。


で、二次会の後はどうしたかって?

それは...。

2007-08-03

虚勢

【今日やったこと】
泳動、泳動、泳動。 シークエンス読み。出てきたアルファベットとにらめっこ。
シークエンスには、笑顔が足りない。
◇◇◇


『彼女』というキーワードにまつわることの多い一週間だった。
研究室の後輩に最近彼女ができたことが判明したり、英会話の先生にそのことでからかわれたり。外から帰ってきて、廊下ですれ違いざま、見ず知らずの女の人に「雨はどのくらい降っていますか」と突然聞かれ、「小雨ですかね」と答え、その後返ってきた笑顔と、「ありがとうございます」に、年甲斐もなくときめいている自分を発見したり。とにかく、あまり得意ではない展開が多かった。

友人たちからもよく聞かれることであるし、自分でも時々考えることもあるのだが、自分はどうも、そういう、アイ、だとか、コイだとか言うものには疎く、はっきり言ってそういうのは苦手である。人を好きになったことが無いわけではないが、なんだか、感情の上下が大きくなったり、他人に対して無駄な心配をしてみたり、余計な詮索をしたり、とにかく疲れる。
確かに、誰かがいつも傍に寄り添ってくれる、とか言うシチュエーションは、ヒヨワな男一匹がコンビニ弁当片手に、路地裏をプラプラしているより、ずっと心強いものなのかもしれない。ただ、自分の場合、どうも人を好きになると相手のことを『考えすぎる』傾向があるらしく、相対的に自分を見失う結果に終わることが多い。後から考えると、馬鹿なことしたなあという事例がホシの数ほどある。今思い出しただけでも恥ずかしさで身が縮む思いだ。

そんなわけで、最近はそういう話は極力避け、一人でプラプラする時間を大切にしている。これを“逃げ”という人もいるだろう。そうだとも。一匹狼は臆病だ。集まってこそ威張っていられる。ほんとに一匹になってしまったなら、後はすたこら逃げおおせて、自分の穴倉の中に閉じこもるか、誰もいない僻地へ旅行してみるしかない。

ちなみにわたしは後者の方だ。...穴倉には、思い出が多すぎるから。