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2009-09-06

頭の中がひどく散らかっていて
もう前に進めなくなりそうなとき、
君らがいるから前に進めるんだと僕は気づかされたんだ。

たったひとりの夜で
大声張り上げて歌っていたあの歌は
もう気持ちを揺さぶることもなくなったけど

声が聞きたい
ただそれだけで
僕は前に進めそうだから

声が聞きたい
ただそれだけを
僕に与えては、くれませんか?


僕に許されていることは
夢を追うことだけなのかも知れないけれど
それで傷つくこの心を干しておく場所すら、僕は知らない

目の前に結わえられた暖かく優しい言葉に
触れることすら敵わないまま
ただ今日という日を、必死に生きているんだ


声が聞きたい
ただそれだけで
僕は前に進めそうだから

声が聞きたい
ただそれだけすら
許されないことなのですか?

2008-04-09

あとがき

はい。
こんな感じです。

ちょっと後半は急ぎすぎたかな。

でも、言いたいことは言えました。

もしだったら、後で、もっと書き直したいところはいっぱいありますが、
今はなかなかその時間的余裕もなく、
全体的に、荒削りな印象はぬぐえません。

もっと先を書いても良いかとは思いましたが、
この先は自分の中で、大体予想できてしまったし
この三人のドラマを完結させることが、そもそもの目的でもなかったので、
キリがいいと判断したところで筆を置きました。

次は、時間がかかるかもしれないけど、
出来ればもっと上手に時間を取って、
しっかり書き込みたいです。

暇なときに、感想下さい。

それから、もしだったら、戯れに、
どこかの文学賞に投稿してみようと思います。
せっかく、書くわけですし。

何作か、此処に出した文章のうち、
好きな物が今後にでも、あったら、
教えて下さい。

では、また次作をお楽しみに。

○▲□ (まるさんかくしかく) - 17

「徹也君、ね」

カタクリは言った。僕にその瞳を向けて。
「いい名前だね。じゃあ、なれなれしいかもしれないけど、テツヤって呼んでもいい?」

「別にいい...けど、」
僕は特に断る理由もなかったので、そう答えたが、
彼女の意図する物は、分からなかった。

その大きな瞳の奥に浮かぶものが、
果たして何ものなのかも。

「仲良くなっても、名字で呼んでいると、なんだか名前を呼ぶ度に、距離が開いていく感じがしない?」
僕のとまどいを察したかのように、彼女は言った。
「だからだよ。」

ふふ
カタクリの向こうで、シイタケが笑った。
「じゃあ、あたしも、テツヤって、呼ぼうかな。」

カタクリが、驚いて咄嗟にそちらを振り向いた。

ごめんね、ミズハちゃん。

シイタケは歯をむき出し、意地悪そうに、そう言って笑った。
また変な位置に、えくぼができた。


それを見てカタクリも、くつくつと笑った。
まるで、仲のよい姉妹のようで、気がつくと僕まで笑顔になっていた。


僕らはそうしているうちに、まどろみ始めた。
慣れない労働で、疲れていたこともあったのかもしれない。
何より、昼下がりの陽光は身に心地よかった。

僕はいつしか、そのまま眠りに落ち、
そして、短い時間ではあったが、夢を見た。


僕は小高い丘に立っていた。

見渡す限りの畑には黒ヤギの描いた無数の幾何学模様が並んでいる。

まる、さんかく、しかく...。

よく見れば、一つ一つは、単純この上ない図形だった。

だが、それらが、一平面上に並んで、さらにお互いに
複雑に、複雑に組み合わさることで、ミステリーと称されるほど、
それは捉え所のない模様を形作っていた。

一つ一つに分解していけば、それを元の単純な図形に戻す事は出来る。
そうすれば、もっと簡単に、この模様の意味を理解できるのかもしれない。

だが、そのときにはすでに、
その全体の意味は見失われてしまっている。

気がつけば、ミステリーはどこかに、消えている。

黒ヤギは夢の中で、その模様を描き続けていた。
まるで、自らの心の内を表現しているかのように。

僕はそれを傍らで見ながら、
それを理解する方法について、試行錯誤を繰り返していた。

「経ク諸ン!」

佐武朗のくしゃみで、目が覚めた。


太陽はまだ、空の高いところを照らしている。
及川さん達は皆起きた。

僕は、勢いを付けて体を起こした。

隣で、シイタケとカタクリがすやすやと、寝息を立てている。
彼女らは、あの二人向かい合って笑った姿勢のまま、
眠ってしまったようだった。

彼女らのいずれも、その表情は、
眠りに落ちる前の無邪気な笑みを、まだ微かに残していた。

僕は、そうして無心に眠りを貪る彼女らを見て、
ふと、微笑んでしまった。


その時、僕は思ったのだ。

僕は今、彼女らにある種のいとおしさを感じた。
そして、なぜだか微笑んでしまった。
たったそれだけで、十分なのだと。

僕らは、生理現象として恋をしているにすぎない。
優しさは、それに伴う、一種の発作だ。

そもそも理由などなくても、人を好きには、なれてしまうのだ。

人はみんな、複雑そうな物は分解したがる。
でも、分解して組み立てて、動かなくなってしまった時計は
世界にいくつも転がっている。

分解するだけが、答えに通じる道なのか?
複雑な物は、複雑な物のままでは、いけないのだろうか。


僕は、立ち上がり、体に付いた土と麦の葉を払って、
放り出していた作業を、再開し始めた。

あ!

後ろで、カタクリとシイタケが飛び起きたのが分かった。

彼女らは、恥ずかしそうに笑いながら、僕の方へあわてて駆けてくる。
一匹のうり坊と、すらりとした若駒が、並んで駆けてくるようで、
なんだか滑稽だった。

シイタケの頭には、一枚、麦の葉の切れ端が付いたままになっている。

僕はそれを右手でつまんで、
髪の毛の間から、取ってあげた。

おっ。
彼女は言った。

“テツヤ”も優しいところ、あるねえ。

そう言って笑っていた。


僕らはその、時にミステリーと称される、不思議な幾何学模様の中にいて、

自分達の立っている場所を時々地図で確認しながら、

三人で一つの板を踏みしめ、麦畑に再び図形を描き始めた。


[完]

2008-04-08

○▲□ (まるさんかくしかく) - 16

振り向くと、トメさんと、数人の及川夫人が、皆、手提げ袋を持ってこちらにやって来た。

「助かった」
思わず、シイタケが声を上げる。
「みんな、ぐんぐん前に進もうとするから、私、足が攣りそうだったよ。」
短い足と、ふくらはぎを、拳で下からぽんぽんと叩きほぐした。

「はあ、私も。ほんと疲れたね。」
カタクリも、安堵した様に息を吐いた。
その額には玉のように汗が輝いている。


踏みつぶした麦畑の一角に車座になって、みんなでおやつを食べた。

おやつと言っても、店で売っている物ではなく、
トメおばあさんの作ったおはぎやお団子、
この村の麦で作ったという、麦飯のお握りなど、
ほとんど食事と言っていいほどのボリュームだ。


実際、佐武朗を初め多数の及川さん達は、よく働く分、
おなかも相当に空くらしく、それらを貪るように食べ尽くすと、
時間を惜しむようにごろりと横になり、あっという間に眠ってしまった。

僕も、カタクリもシイタケも、食べた後にはどっと疲れが出てきて、
だんだん眠くなったので、同様に青草の上に寝転がった。

鼻のすぐ間近で、青い麦葉のにおいがする。
鼻に鋭く入ってくるのは、土のにおい。
しかし、ずいぶんと長いこと、忘れていたようなにおいだ。

ごろりと天を仰げば、高い空に、取って付けたような白い雲が見える。
小さな鳥が、目の片隅をつがいで通っていく。

どこかで、名前も知らない鳥が、
2度、甲高く鳴いた。

「こういうの、ひさしぶり」
すぐ隣で、カタクリの声がした。

「ほんとうだねえ」
シイタケも言った。
「久しぶりとは思うけど、最後はいつだったか、もう覚えてないんだよねえ。」

「たぶん、」
カタクリが答えた。
「きっと摺り込まれているんだよ。こういう記憶がみんなの中に」

「生まれる前から?」
僕が言った。

「生まれる前から。」
カタクリが答えた。
「なんて、あんまり理学部らしくもなかったかな。」
カタクリはそう言って、笑った。

「詩人だねえ、ミズハちゃん」
眠そうな声でシイタケが言った。
「詩人だよ。」

「詩人だよね、あたしは」
カタクリは言った。
小さなため息が聞こえた。
「思えば、形のない物ばっかり、追いかけてた。
目の前のことは何も考えずに、この2年、過去のことにずっと縛られてた。」
それは、黒ヤギのことだろう。そう僕は思った。

「今を生きなきゃ、始まらないのに。」
カタクリの瞳は身じろぎもせず、青い空を見すえていた。
天の青さが、その瞳の中に宿っている様に見えた。


シイタケはいつしか、眠ってしまったようだ。
グウグウと寝息が聞こえてくる。

「ねえ、真島君?」
カタクリの瞳が、ふいに僕の方を向けられた。
頭上の青さを、それは微かに反射していた。

「そう言えば、下の名前、聞いてなかったね。なんて言うの?」
「...徹也。」
僕は答えた。自分の名前を人に教えるのを、
わずかにでも躊躇したのは、これが生まれて初めてだった。

「テツヤ、か」
そう言うとカタクリは再び天を向いた。
その口元は、かすかに微笑んでいる。
「私、さっき聞いちゃったんだけど」
カタクリは話した。
「このイベント、最初に始めたの、テツヤみたいなの」

僕は驚いた。しかし、考えてみれば、
それは、至極納得のいくことだった。


カタクリは話した。
テツヤは、試験勉強の中、星を見るために、この星見村にやって来た。
天体観測は、確かに、彼の昔からの趣味ではあったが、そんな大切な時期にそんな悠長なことをしていたのだから、それは実際には現実逃避だったと言っても良いだろう。

そして、こののどかな星見村の自然に触れ、
東京にはない、無数の星々の海におぼれて、
自分の努力していることの意味を見失ってしまったらしい。

勉強してもしなくても、生きてはいける。
それは当然のことなのだが、試験勉強に躍起になっている受験生は、
見逃してしまう事実だ。

黒ヤギはこののどかな村で、星の下で、その事実に突き当たった。

彼はその時、留藏さんの家に民泊していた。
留藏さんは昔から、星を見たさに他所からやって来る人々に
部屋を提供していたのだそうだ。

そして、留藏さんの話から、黒ヤギはこの村のかかえる貧しさを知ったらしい。
それを聞いて、半ば目標を失いかけていた黒ヤギは、
彼にできることで、村おこしをしたいと提案した。

天文ファンだった彼が選んだのは、ミステリーサークルだった。

実際海外では、このような町おこしのために人造ミステリーサークル造りが
行われた例があるらしい。

しかし、彼の本当の目的はそれとは別なところにあった。
彼は、そうやって、宇宙に興味を持つ人を集めて、
この村の星空をもっと多くの人に見てもらおうと考えていたらしい。

そうしてこそ、本当の村おこしは出来ると考えたのだ。

「それで、今はアルバイトしながら」
カタクリは続けた。
「年に一回ここに来て、このイベントを仕切っているんだって。」
カタクリはそこで、ふっと笑った。

「馬鹿だよね。」
彼女は僕を見た。その瞳は、今にでも泣き出しそうな位、涙に濡れていた。
彼女は、しかし、その濡れた瞳を真っ直ぐに空に向けた。

彼女の瞳に映ったものは、確かに青い昼の空だった。
しかし、彼女が本当に見ていたのは、この太陽の青い幻覚の向こう側にある、暗い夜空だった。黒ヤギの心を奪っていった、おぼれるような星空を、彼女は今しも泣き出しそうな瞳のまま、挑むように凝視した。

「...星がない、って言うから、どんな哲学的な意味かと思っていたら...。
そのまんまだったんだ。なんのひねりも、深い意味も。私はそのなかに、私を巻き込む、何かの示唆を見いだそうと、ずっとずっと、手探りしていたのに。」

彼女は笑った。そして、つかの間、僕に背を向け、そっと目頭を押さえた。
「馬鹿だよ。」

そんな馬鹿な理由のために、私は一人になったんだ。
彼女の背中は、そう語っているように見えた。

しかし、それはほんのつかの間だった。彼女はすぐに顔を上げ、
とびきりの笑顔を、僕に見せてくれた。

また、みっともないとこ、見せてごめんね。
彼女はそう言った。

先ほどまでの涙は、もうすっかり乾いていて、
目頭に少し、濡れた跡を留めただけだった。

「徹也君、ね」

2008-04-07

○▲□ (まるさんかくしかく) - 15

5

僕らが畑に着いた頃、青葉揺れる麦畑はすでに、大勢の及川さんで溢れていた。

「尾胃!、一郎!小後ハ名II型屋?」

「氏家具!」

「佐武朗、手津田得」

「王!」

よく見ると麦畑の中、あの好男子・佐武朗もあくせくと働いている。
長いひもの付いた板で、麦を踏みつけ踏みつけ、平らにならしていく。

若い佐武朗は確かに筋骨たくましいが、周りの及川さん達も、日頃農作業しているだけあって、それなりにたくましい体つきをしており、佐武朗にはないアダルトな魅力を、そのかすかな加齢臭とともに、あたりに漂わせていた。

畑にはあらかじめロープが張られ、それが図形の目印になる。

佐武朗の肢体が動く度、若い筋肉が別の生き物のように蠢く。

「ほらあたし達も!」
シイタケの瞳は、爛々と輝いている。獲物を狙うハイエナ、エサを前にしたトカゲ。みんな、こういう顔をしている。

シイタケは当然のように、佐武朗の後ろに立って、手伝い始めた。

「うん!」
カタクリはそれまで羽織っていたものを脱いで、Tシャツ姿になった。
白くて長い腕が、シャツの袖からすらりと伸びている。
その白さに、思わず目がくらんだ。

作業していた無数の及川さん達も、その姿に一瞬手元を休めた。
そして、鼻の下をゆるませたまま、手元だけは黙々と作業を再開した。
心なしか、アダルトな魅力が、あたりに充ち満ちてきたように感じる。

正直、この黒い男だらけの畑の中では、カタクリの容姿は、一種場違いにすら見えた。

しかし、本人はいたって気にせず、どんどん畑の奥に入っていく。

その跳ねるような足取りに先ほどまでの暗さはもうなかった。
細い足で若駒のように軽く、畑の奥へ駆けていく。

一方のシイタケは、その決してブナピーではない体色もさることながら、作業する手つきが、初めてとは思えないほど様になっていて、驚かされた。

ねえちゃん、うまいねえ、

無数の及川さんの一人がそう言ったのを受けて、シイタケは照れたように笑って、

ええ、向いてるみたいだから、ここにお嫁に来ましょうかねえ、

と軽口をたたいた。
大勢の及川さん達はみんな笑った。

では佐武朗の嫁御に来たらいいべよ

そうだ!そうだ!

そう言われて、シイタケはまんざらでもなさそうだったが、
佐武朗はちょっと困った顔をして、恥ずかしくなったのか、前も見ずに作業をしていた。


僕も、ぼんやり立ってみているわけにも行かず、彼女らと一緒に一枚の板に足を乗せた。

左から順に、シイタケ、カタクリ、僕。
三人で、一枚の長い板に片足を載せて、三人一脚、といった感じだ。

「ほら、いち、に、いち、に」
シイタケが、拍子を取り始めた。

「いち、に、いち、に」
カタクリも、それに併せる。

「..いち、に..いち、に..」
僕は多少拍子はずれになりながら懸命に彼女らの拍子を追いかけた。

こういうときに、その人間の、生来の器用さというものが出てしまう。
初めての作業を、いとも簡単にやってしまう人間がいる一方で、初めてのうちは、とにかく失敗ばかりする人間というのがどうしてもいる。

僕は元々後者の方で、しかも努力嫌いの不精者だから、これまで、何か身につけたもの、と言うのが一切無い。特技がないのもそれに由来する。

努力は、楽しいから、続くのだ。失敗してばかりで、つまらない思いしかしなければ、誰だって止めたくなってしまう。つまらなくても、とにかく続けていると言う人間は、口ではそう言っていても、実はそれが好きなのか、それとも変わった性癖をしているのではないかと、疑わざるを得ない。

そう言う意味では、僕は健康だ。
でも今は、失敗しても、置いて行かれても、この作業を続けようと思う。

隣がカタクリだから?


そうだとも。

面倒でも、うまくいかなくても、それを上回る喜びがあるうちは、喜んで続けることができる。

何せ、彼女は僕の触媒なのだから。

「いち、に、いち、に」
「いち、にいち、に」

カタクリの息が弾み出す。長い髪を頭の後ろで束ねているので、きれいな首筋が、顎の線が、くっきりと見える。束ねた髪が、まさに馬のしっぽのように、前後左右に揺れていた。

僕は自分の頭のすぐ脇にある“それ”に気を取られて、足下の作業に集中するのに、苦労した。

どきどきと、心臓が高鳴る。これは作業の所為なんだか、カタクリの所為なんだか、もはや分からなかった。

シイタケも、カタクリの向こう側で、へえへえと息を切らし始めている。

すぐ前を進んでいた佐武朗はいつの間にか遠くなっている。
さすがに、いつも体を動かしている人間は違う。


同じ、人間なのに、と言う気がしてくる。
ここまで、なんにもできない人間と、あそこまで、タフな人間が、どうして同じ人間と言ってられるのか、僕は不思議な気がした。


僕はここで、あることに気づいた。
そう言えば、いるはずの黒ヤギがいない。

やつは、すでにここに来ているはずなのに、少なくとも僕の目の届く範囲には、その姿が見えない。

今のカタクリは、完全に作業に集中しており、息を切らしながらも、その顔にはうっすらと笑顔を浮かべている。何かに集中している子供のように、あどけなく、そして、いとおしくなるような表情をしている。
彼女が黒ヤギを見つけたら、少なくとも、この表情は壊れてしまうだろう。僕は、彼が、僕らの前に、永遠に現れないことを心の底から祈っていた。



そのまま、その作業を2時間ほど続けただろうか。

もうすっかり足も持ち上がらなくなり、息も上がってしまった頃、

土手の方から
「おやつにすべえー!」
と、大きな救いの声がした。

2008-04-06

○▲□ (まるさんかくしかく) - 14

僕らが再び老夫婦の家から青年団の事務所に戻ったとき、安西さんは僕らの到着が遅いのを心配して、事務所の前でうろうろしていた。

「お、来た来た。あんまり遅いから、電話を掛けようと思っていたところだよ。」
安西さんはほっとした顔で言った。そして僕らを手招きするようにして、
「それじゃ、説明するから、中入って。」
と言って、奥へ先に入っていった。

中へ入ると、そこには僕らの他には、数人の職員の方が働いているだけだった。
最初来たときにはいた、多数の団員の方達はすでにそこにはいなかった。

安西さんに聞くと、すでに皆、仕事を始めているらしい。

「まあ、さすがにみんな、もう3回目だからね。ほら、あの通り、みんな出てしまっているよ。」

安西さんの指さす方向には、団員の出欠を表すホワイトボードがつるされていた。
ほとんどの人の名前の脇に赤いマーカーで『ミステリイ』とかかれている。少々不気味だが、ある意味、壮観だ。青年団の男集が総動員と言ったところだ。まさに、このミステリーサークル造りは、この小さな村を挙げての大イベントなのだ。

「それにしても」
シイタケが言った。
「ほとんど、及川なんですね」
確かにそのとおりだった。安西さんを除き、ほぼ全員が及川だ。
「あそこに書いてあるので、及川でないのは、」
安西さんが言った。
「私と、黒柳君だけだね」
「テツ...、いえ、クロヤギさんも」
カタクリが口を開いた。
「青年団の一員なんですか?」

言われてみれば、ホワイトボードの一番下に、『黒柳』としっかり書いてあった。

考えてみれば不思議だ。トメさんは黒ヤギはこの時期にだけ村に来ると言っていた。この村の人間ではないはずなのに、どうして青年団の団員に名前があるのだろう。
「そりゃあ、そうさ。」
安西さんは、少し誇るように、大きな声を出した。
「黒柳君は、我が村の、恩人だからね。」
「恩人?」
あの見た目の暗い男が、この村に一体何をしたというのだろう。
僕らはその話を聞いて、一様に不思議そうな顔をしていたに違いない。

カピパラは意外と普通と言っていたが、カタクリを二年も苦しめるようななぞなぞを残す無責任な態度と、村外者でありながら恩人として、青年団の一員にならべられるそのギャップを、僕らはどうしても埋められずにいた。

「君らはまだ、黒柳君に会ってないのかい?留藏さんの家に、泊まってるはずだが。」
「あ、会いました。でも、見かけただけだったので。」
カタクリが言った。

「そうかい。あの子はなかなか寡黙だからね。でも、いい子だよ。あの子のおかげで...」

そのとき、遠くの方で、断腸!と声がした。

早具して毛音ベガ!毛羽島ッテっ徒!

「王、今伊具!」
安西さんは答えた。
「はは、急かされちまった。もうみんな始まってるそうだ。じゃあ我々も、ちゃっちゃと終わらせていきましょうか。」

安西さんは、黒ヤギについての話を切り上げて、手元の地図を開いた。

地図には、ミステリーサークルを作る畑の区画が記されており、そこに、様々な形状の幾何学模様がびっしりと記されていた。それは地図を見ただけ度でも十分に美しく、これが実際に畑の上に描かれたら、と思うと、僕は思わず興奮した。

「基本的に、細長い板きれで、この線をなぞるように麦を踏みつけていくのですが、」
安西さんは言った。
「塗りつぶしてあるところは、全部踏みつけなくてはいけません。そこは一面平らにするのです。」

「麦を踏みつけても、大丈夫なんですか」
僕は尋ねた。

「元々、今回使う土地は、食糧難の頃に、無理矢理開墾したもので、それほど畑作に向いているわけではないのです。今では逆に、ミステリイサアクルを作るために麦をまいています。それに...、不思議なことに、このサアクルに使った方が、使わなかった隣の畑より、麦がよりよく育つように思います。収穫後、“宇宙麦”として、次の年のおみやげ物にしているんですわ。」

商魂たくましいものだ。売れるものなら何でも打って、村おこししようとしている。
多少つまらない者でも、しょうもないものでも、売らないでいるよりは、遙かにましなのだ。

踏みつけた方が育ちがいいというのは、門外漢の僕には不思議でしょうがなかったが、安西さんは、自分が思うに、とちょっと置きして麦の栽培の際に行われるという、“麦踏み”と言う農作業について教えてくれた。

「麦は、踏みつけた方が、強く育つ、とは昔から言います。実際それで、まだ若い苗を踏みつける作業というのが、冬巻き麦なら春先に行われるんですが、」
安西さんは、首をかしげて
「我々のように春蒔きの麦で、しかも、ある程度大きくなってから、麦踏みをすると言うことは、まず無いでしょう。普通だったら、そのまま、しおれてしまっても、おかしくないですからね。...まあ、何がミステリイと言って、これが一番のミステリイなのかもしれません」
そう言って、大きなおなかを揺らし、はははと豪快に笑った。

その不思議な話に僕も思わず引き込まれ、あれやこれや、質問を浴びせてしまっていた。
そして気がつくと、僕は夢中になるあまり、すっかりカタクリのことを忘れていた。
彼女は黒ヤギのことを、聞きたがっていたはずだ。

ふと見ると、カタクリは目を伏せ、うつむき加減だった。話は全くと言っていいほど聞こえていないらしかった。彼女はもっとテツヤの話を聞きたかったのだろう。眉根を寄せて、何か衝動のようなものを、こらえている様子だった。

それを見て、なんだかカタクリに対して、ものすごく済まないようなことをしたような気がしてきた。

彼女のために、何かしてあげたかった。でも、僕に、今、一体何ができるだろう。何と言ってあげたらいいだろう。

僕には、分からなかった。



シイタケは、カタクリの隣に座っていた。

カタクリの、そのおちつかない様子に気づいたのか、シイタケはさりげなく、顔は安西さんの方へ向けたまま、膝の上に組まれたカタクリの細く白い手に、その小さな丸い手を載せた。

カタクリはその手をじっと見つめそして、少し微笑んで、それをそっと握り返した。

たった、それだけの仕草だった。

しかし、カタクリの表情は、その前後で、はっきりと変化していた。
その表情には、わずかではあるが、元の涼しげな安らぎが戻りつつあった。


一言の言葉すら、そこでは必要なかった。

考えてみれば、僕がカタクリのために何かをできる場面は、これまで、幾度となくあったのに、僕は何一つ、彼女のために役に立てたことはなかった。

むしろ、内心少なからず軽蔑しているシイタケの方が、相手の一番して欲しいことを、必要なことを、とっさにくみ取ってやっている印象があった。

涙を拭いてあげる、手を差し出してあげる。

たったそれだけのことで、相手はどれだけ心強いだろう。

特技も車も鞄も無く、顔すらイマイチであっても、
人である限り、人を支えてあげることはできる。

こんなシンプルなことを、すっかり見落としていた自分に気づいた。

しかし、支えると言うことは、口で言うのは簡単だが、非常に抽象的で、実際に行為としてそれを実行できる人間は、どれほどいるのだろう。

少なくとも、僕には、シイタケがカタクリに対して見せた、いくつかの実際の振る舞いを除いて、その具体的な行為を思い浮かべることが、できなかった。

そして、いざそれが必要となったとき、それを自然に実行する自信も、自分にはなかった。


「どうかした?」
安西さんが、心配そうな顔で、僕らを見つめている。

「いいえ、なんでもないです」
カタクリが答えた。

じゃあ、続けるね、
そう言って、安西さんは作業の説明に戻った。

カタクリは、シイタケの、お世辞にも形の良いとは言えない丸い手を、その膝の上で、まだ、そっと握っている。

2008-04-03

午前三時の妄想-4

作者注;以下の文章は相当疲弊した時に書いた物です。
理性の働きがだいぶ落ちています。(今日は全体的に疲れ切っています)
あんまり、よろしくないかも。嫌いな人は飛ばして下さい。
--
なぜか昔から、
こういうレイプなシーンを見ると、
完全に男の立場になれない自分がいました。

なんか、どっちも大変そう。
そう言う感覚は、今だにあります。
冷静とは、つまらない物です。

まえに誰かに教えた詩の続き。
(現代文語訳)

“...自分とそれからたったもう一つのたましいと
完全そして永久にどこまでも一緒に行こうとする
この変態を恋愛という

そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
無理にでもごまかし求め得ようとする
この傾向を性欲という --- 宮沢賢治”

性交渉より、愛が欲しいです。

...だいぶ疲れてんな、おれ。

本日の妄想は、生理的な恐怖、がどうやらネックのようです。
書いているのは筆なので、僕ではありません。
それが深層心理にしろなんにしろ、どうしようもないです。
そういうの嫌いな人は読まないで。

他に、もっと健康的(?)な詩や文章も、いっぱい書いてあるから。

追記;
後でよく考えてみたら、太陽は人間の道徳の象徴でもあります。
「お天道様が見てる」ってやつ。彼女が太陽を遮ろうとしたのは、
あるいは自分の道徳にふたをしようとしたためかもしれません。

--

A blink of the sun

ジグザグの通り。48番街。
そこは嘗て、『ブラック』とまで言われた通りで、その場所を知らない人間がうかつに近づけば
たちまち追いはぎに遭い、一文無しにされ、挙げ句の果てには命まで奪われるそんな通りだった。そう聞けば多くの人は、ニューヨークあたりの、ハーレムを想像するかもしれない。
しかし、ここは日本だ。
正真正銘、日本の真ん中の、日本人だけが住む下町の通りなのだ。
いつからそんな暗い影のつきまとう場所になったのか。
それを正確に知るものも今では少ない。
以前から住む者は、一人、また一人と減ってしまって、今では路地の一番奥のバラックのような小屋に住む『権じい』以外にこの町の古い習わしを知るものはいなくなってしまった。
「ねえ、権じい」
美由紀は尋ねた。彼なら、聡の行方を知っている。そう言った者がいたからだ。
権じいはもはや目もろくに見えなくなったかなり高齢の老人で、果たして意識すら、まともに働いているかを危ぶまれるほど日頃はぼんやりしていた。
「私の息子を捜しているの、このぐらいの、小さな」
美由紀は右の手で、果たして見えているかも怪しい権じいの前に、その子の身長を示した。
「小さな男の子なの」
権じいは、その説明を聞いてもうんともすんとも言わなかった。ただ笑って
「そうかい」
と言っただけだった。
「そうかい、って...」
やっぱり、こんなおじいさんじゃダメなんだろうか。
美由紀は思った。
こんな町の人の意見をすんなり聞き入れた私が馬鹿だった。こんな嘘つきだらけの危険な街で、
私はたぶらかされているんだろうか。
権じいは以前として、何かを言う出す素振りはない。
美由紀の顔すら、ちゃんと認識しているか、怪しかった。
「ねえ、おじいさん」
美由紀はそれでも、子のもうろくした老人に尋ねた。他に心当たりなど無いのだ。
「本当に知らないの?」

聡は、美由紀のたった一人の息子だった。
その父親が誰だったのか、彼女は正確には分からなかった。
当時、彼女には、後の夫となる男がいたが、その男が正確に父親である可能性は、半分だった。
もう半分は...。
美由紀はその顔を、なぜだかよく思い出せない。
来客があり、玄関を開けたとたん、彼女はそこに押し倒され、
気がついたときには、全てが終わっていた。
彼女はあまりのことに驚き、放心していた。
若い男だったようでもあり、中年ぐらいだったようでもある。
彼女の耳の奥には、絶頂を迎えた男の、馬の嘶きを思わせるような動物的な奇声だけが
かすかに残っていた程度だった。

彼女は、目が回るようだった。
目の前が真っ白になり、真っ暗になった。
そして、気がつくと、お昼過ぎだったはずの時間は、夕方になっていた。


正気を取り戻し、まず思い浮かんだのは、彼の顔だった。
彼の、いつも優しい笑顔が、目に浮かんだ。
せっかくつかみかけた、彼との幸せなのに、
ここで、離すわけにはいかない。
夢だったと思おうとした。
しかし、彼女の内部には、うずくような痛みがまだ残っていた。
それは残酷に、彼女の身に降りかかった悪魔のような男の存在を主張しているようでもあった。
彼女は、しかし、認めるわけにはいかなかった。
結局それを秘密として押し通した。

まもなく彼女は、一人の子を身ごもった。
「あなたの子よ」
彼女は言った。
彼はたいそう喜んだ。笑うと細くなる目を、更にいっそう細めて。
彼の喜ぶ顔は、彼女も好きだった。
だから、これでいいんだ、と彼女は思った。この子は、私たちの間の子。

たしかに、実際に、そうかもしれなかった。
しかし、そうでないかもしれなかった。
いくら、不用意であったとはいえ、たった一度のことで。
彼女はそう考えようと努力していた。
決定的な検査をしない限り、その不安をいつまでもぬぐい去れないことは、
暗黙のうちに承知していながら、彼女にはその勇気が持てずにいた。

いずれにしろ、この子は育てなくてはいけないのだ。
彼女は思った。
誰の子であろうと、生を受けた以上、今更捨て置くわけにも行かない。
彼女は、自らの子を不義の子として恨むにはあまりに人が良すぎた。
そして、完全に恨むほどの根拠がないことも、事実だった。
たとえ、真実がどうであったとしても、恨むべきは、
あの悪魔のような出来事であって、この子ではない。そう思うようにしていた。

実際彼はこの子の誕生を、本当に心待ちにしていた。
ただでさえ、後ろめたい思いを抱えながら、更に彼の期待を裏切るようなことはだけはしたくなかった。

その子は順調に発育し、そして一人の男の子として生を受けた。
彼によりその子は聡と名付けられた。
彼は聡をたいそうかわいがった。実際、目の形がどことなく、彼に似ていた。
彼女はほっとした。間違いない。こんなに似てるんだもの。

彼はすぐに、2人目を作ろう、と言いだした。
確かに、それは当初から予定されていたことだった。
兄弟がいなくちゃ、かわいそうじゃない。
それは結婚前、彼女が言い出したことだった。
彼女は快諾した。

しかし、なかなか二人目の子は授からなかった。
2年がたち、3年がたっても、その兆しはなかった。
彼は訝しんだ。
まず美由紀の方が先に疑われ、病院に行ったが、特に異常はないと言われた。
続いて彼が受けた検査で、驚くべき事実が判明した。

彼は、無精子症だったのである。

「これは、ちょっと遺伝子を調べてみないと分かりませんが」
青白い顔をした痩せた医者は言った。
「ひょっとすると、先天性の物かもしれませんね。」

「先生、まさかそんなはずはありません」
彼は言った。
「現に僕らは、すでに子供を一人もうけているわけですし。」
「ああ、そうなのですか」
医者は言った。
「ならば、先天的と言うことはないかもしれませんが...。いずれにしろ、珍しい症例ですから、研究のために、遺伝子を調べさせていただいてよろしいですか?」
「必要のない検査はしなくても...。」
付き添っていた彼女が彼に言った。
しかし、彼は首を横に振らなかった。彼は医師に向かって言った。
「お願いします」
そして彼女の方を振り向くと、
「今のままじゃ、結局、聡の兄弟を作ってやることはできないだろう?検査して原因がはっきりすれば、治療もできるかもしれないじゃないか」
そう言って、あの彼女の好きな笑顔を見せてくれたのだった。

「ねえ、権じい」
権じいは依然として、返事をしない。
ただ、急に春めいてきた陽気の中で、彼の首はうつらうつらし始めた。
なんて、のんきなおじいさんなんだろう。
彼女は思った。
どうして、こんな危険な街で、
彼のような無防備なおじいさんが襲われてしまうことがないのだろう。
災厄は、人を選ぶのだろうか。私のような人間には、躊躇無く襲いかかってくるような物が、
一部の人間には全く降りかからずに、済んでしまうものなのか。
それは全く、この危険な街の、一種ミステリーと言っていいように思われた。

「どうだい、分かったかい」
帰り際、彼女に、権じいのことを教えてくれた男が、再び話しかけてきた。
どうやら心配してくれていたらしい。
「全然」
彼女は力なく答えた。

「そうか...。あのじいさんなら知ってるかと持ったんだが...。悪いな、無駄足踏ませたみたいで」
男はまるで自分のことのようにしょげかえっていた。
「いいのよ。そんな、気にしないで。あなたの所為ではないんだから」
彼女はそう言って、彼を慰めた。
そうか、
そう言って彼は顔を上げた。
その表情は、よく見ると、以前もどこかで会ったような気がした。

そのとき彼は、傾きかけた午後の太陽を背にしていた。
その顔は太陽を背景にして、一つのシルエットになっていた。
そのシルエットを、彼女は、彼のおなかの下から見た様に錯覚した。

その固いおなかの皮にこすられた気がした。
そこに生えた毛の一本一本の感覚を彼女は、再び撫でられたかのように思い出した。
何かの音が聞こえた気がした。
あの日の痛みが繰り返し繰り返し思い出された。
内蔵をかき回された。
あの日の彼と彼女の動物的な臭いが蘇った気がした。
なすすべのない恐怖がせり上がってきた。
落涙、嗚咽、嗚咽、呼吸...、彼女はおなかの下から、それを見上げていた。唾液が落ちてきた。一人の、男の....、目前の戸口はあまりに遠かった。悲鳴を上げたが、声にはならなかった。
太陽は眩しかった。太陽に見られている気がした。太陽は見ていた。疑いもなく見ていた。

見ないで欲しい、見ないで欲しい....、

彼女は手を伸ばした。太陽を遮ろうとした。
しかし、その手は虚しく空を掴んだに過ぎなかった。

彼女が掲げた手の先で、太陽はその崩れゆく女を
瞬きもせず見つめていた。


不意に、彼女は背筋にぞっと寒気が走るのを感じた。
今自分がいる場所を一瞬忘れた。
目の前の男から、自分の体を抱えたまま
自然に後ずさりしている自分に気づいた。

理由は分からなかった。
ただ、純粋に、恐怖だけが湧いてきて、
そして反射的に彼女の体は戦慄し、顔色はたちまち青ざめた。
男は、美由紀の様子が急におかしくなり、今にも倒れそうになったのを見て、ふとその腕に手を掛けた。
彼女は、咄嗟に、その腕を払った。
「さわらないで」
彼女は言った。
「...さわらないで...。」

彼は、一度出した腕をどうしたらよい物か困っている様子だったが、やがてそれを引っ込めた。
その目は明らかに彼女を心配していたが、彼女の耳はその向こうに、
かすかに、馬の嘶きを聞いた気がした。

午前三時の妄想-3

【今日やったこと】
そりゃあ、大腸菌の培養さ。

ほかに、なにがあるってんだい?
◇◇◇


酒飲んで、泥酔して、書いた文章。
たぶん明日、覚えてない。
でも、僕の真実。一つの、ロックさ。
下品。
嫌いな人、読まないで。

--
Dagger, in the Jack's pocket
(You are ass hole, my honey.改題)


「なんで?」
彼女が言った
「何で、そう言うことになるの?」

東京、神田付近のファミレス。
僕らの行きつけの、店の一つ。
そこで彼女は大きな声を上げている。
僕らの空気が凍る。
「美佐子、ごめんよ」
孝史が言う。
「健二が、どうしても、無理だって言うから」
孝史は、結局“いい奴”なのだ。そう言って、いつも僕の所為にして、話を終わらせようとする。

「え?、また健二なの」
美佐子は言う、その目は僕を明らかにさげすんでいる。
「いい加減にしてよね、私をいくら待たせたら気が済むの」
彼女は、その切れ長の目で僕に迫る。
それは見方によっては狐のように鋭く、
一方で猫のように妖艶だった。
「ごめん」
僕は謝った。彼女の前では、下手な口をきくだけ無駄だ。
自分のプライドなど捨てて、一匹の虫けらになったつもりで、侍るほかない。
それが、いかに僕にとって屈辱だとしても、それが僕らの礼儀であり、最大の愛情表現だ。
「意地のない男」
彼女が鼻で笑った。
僕は卑屈に笑った。
心の中では、くそったれ、と思いつつも。

女の虚勢など。
僕はあくまで心の中でだけ、強がりを言っていた。
いざとなれば、たいした問題とならない。
僕は思っていた。
男を知らない女ほど、自分がサディスティックかマゾヒスティックか気にするものだ。
しかし結局、女は、その体の構成上、徹底的なサディスティックな存在にはなれっこ無いのだ。
僕は心の中で蔑んでいた。世の強がりな、女という存在全てを。

それは男を知らないが故、意気がれる、ガラスのような虚勢だった。
それだけに、僕らには、それは儚く、哀れですらあり、そして美しかった。

「ふん。斉藤」
彼女は僕の名を名字で呼んだ。まるで、僕を足下でも及ばない存在にまで見下したと言わんばかりに。
「あんた、私にそんなことを言う権限があるの?」
僕は心の中で、爆笑した。
へ、何言っていやがる、この世間知らずの童女め、
男のなんたるかも、知らないくせに、SMの女王気取りだ。
「ごめんなさい、美佐子さん」
僕は言った。あくまで申し訳ない表情を取り繕ったまま。
「僕はその日予定があるんです」
僕は言った。
「あたしより優先する予定ってなに?」
美佐子は言った。
極めて整った顔。そして絶対的な容姿。
彼女はそれが全てだった。形こそ、彼女だった。
その表情は、自信に溢れていた。
あばた顔の僕など、虫けら程度にも思っていない様子だった。
「ごめんなさい、その日は、光との約束があるので」
僕は言った。
「光?ふん。」
美佐子は鼻で笑った。
「あの田舎くさい女に、あなたは私を優先するというの?」
美佐子は再び笑った。
「ばかばかしい」

全くです。
孝史が言う。
ばかだな、おまえ。
他の下僕どもが笑う。
しかしどいつも、卑屈な顔をしている。

「ばかばかしい、と言いますが、」
僕は言ってやった。その哀れなガラスの人形に。
「あんたみたいな、男を知らない娘と一緒にいちゃいちゃしているよりはましなもんでね」

一瞬世界が凍った。
孝史は、笑顔のまま、マイナス197度の世界にでも放り込まれたように、固まっていた。
彼にとっては美佐子が全てなのだ。彼女が全ての美意識の基本であり、彼女の基準に合わない者は全て、愚であった。
それは言わば、美佐子以外の女を知らないことの裏返しだった。
「ふ..、何を言うの?」
美佐子は言った、明らかにその目は泳いでいた。
彼女の瞳は、自分に蔑む男の顔は覚えていても、それに刃向かう男の顔は知らなかった。
その目は僕を正しくとらえてはいなかった。
ただ、彼女の体に群がる、無数の夜の虫の一匹位にしか、僕をとらえていなかったはずだ。
まさか、こんなあばた面の虫けらの一匹が、高貴な彼女に反乱を起こすとは夢にも思わなかったに違いない。
僕は他の何かしらとともに、彼女を貪った男一人ではあったが、その体を餌食としていながら、その目は常に蔑みに満ちていたとは、愚かにも、彼女は気づく余地もなかったらしい。

「ばか、ね」
美佐子は言った。僕をとらえきれないままに。
「光だなんて。」彼女は言った。ガラスは、いつの時代も美しい。その表面に傷の付くまでの、はかない時間の内においてだが。
「あんな、不細工、私は初めて見たわ」
全くその通りだ。僕は思った。
あいつは、美佐子に比べたら、不細工意外の何物でもない。
でかい口、鼻の穴。泥臭い口調。がっちりした顎。
どこをとっても、可憐な芸術品のような、美佐子の足元にも及ばなかった。
しかし、僕は彼女こそ、僕が最優先すべき女性だと思いつつあった。
「へっ」
僕は鼻で笑った。
「おまえは確かに、男もへつらう美女かもしんねえけどよ。」
僕は言った。
「きれいなだけの女はいくらでもいらあ。それに」
僕は皮肉に笑った。
「エロ本の中のきれいな女ってのは、一回見れば飽きちまうもんさ。おめえは、そん位の価値しか、ねえんだ」

彼女は、目に見えて紅潮した。
孝史は青ざめた。
僕はざまあミヤガレ虫けらめ、と思った。
「田舎臭え、女と言ったな、雌牛」
僕は言った。
「あいつのでけえ顎は、おめえみてえに好き嫌いしねえ。何でも食うし、何でも話す。変なプライドにかまけて不自由な思いしているおめえとは、格が違うんだよ」
美佐子は、依然紅潮したままだった。
彼女にとってはこのような事態は想定外のものであったらしい。
孝史は依然おろおろしている。彼は、美佐子の価値観に従う意外の何物をも、発達させてはいなかった、哀れな男だった。
「こんな、美人の5Pの相手になる位なら、」
僕は言ってやった。
「俺はあの不細工のために、一生を捧げてやる。」
僕の脳裏には、光の、あの不細工なでかい笑い顔が浮かんだ。
それは、確かに、女と言うのも憚られるほどの存在だった。
しかし、彼女こそは、自分を、一人の男として認めてくれた存在だった。
こんな、どの人間からも相手にされない、虫けらのような自分を、
気に入り、愛していますとまで言ってくれた、存在だった。
「ばかよ」
美佐子は言った。
「あんな、糞みたいな女」
そうですとも。
孝史は言った。
額には無数の脂汗が浮かんでいる。
それは、美しい女をもらってこそ全てという、既成概念に囚われた、哀れな男の姿に見えた。
「糞だと?」
僕は言った。
「糞でも、カスみてえなてめえと、いい勝負だ。おれを、認めてくれるのなら、糞とでも喜んでセックスしてやるよ。」
美佐子は言葉を失っていた。
孝史は依然青い顔をしていた。
彼の頭の中は、美佐子との関係をいかにして修復するか、その一点で凝り固まっているように見えた。
彼の思考はその範疇を超えて、美佐子を捨て去るという規定外の領域には達成できないほど、美佐子に心酔していた。
「孝史。」
僕は言った。
「哀れだな。おめえは虫だ。そんな整った顔していながら。」
僕はなおも言った。
「よく見てみな、この女を。50過ぎたら、どこを見て過ごすつもりだ?」
僕はそう言って、そのラブホテルのロビーを出た。
僕の頭の中には、不細工な光の笑顔がくどいほど浮かび上がっていた。
僕はネオンサインのきらめく街で一人苦笑せざるを得なかった。
しかし、世界で唯一、こんな、後先見えない自分をそうと知りながら、好きだと言ってくれた、その醜い愚かな笑顔を、
むざむざと見捨てるわけにはいかない気がして、僕は帰路を急ぐのだった。

○▲□ (まるさんかくしかく) - 13

星がなかったからかな、東京には。

2年前の秋、テツヤはそう言ってカタクリの下を去った。

「二年前、私は浪人生だった。」
カタクリは老夫婦宅での、質素な昼食の後、僕らに語った。
おばあさんが、流しで食器を洗う音がかちゃかちゃと響いた。

縁側に生える竹藪が室内に、涼しげな影を生み出している。
影は風に伴って揺れ、さらさらと鳴った。

おじいさんは、聞こえないのか、縁側の方を見ながら、一人たばこを吸っている。

「テツヤもそうだったの。私たちは二人とも、T大学の理学部を目指していた。私が化学で、テツヤは天文学を学ぶのが夢だった。」
「T大学!?」
カタクリが思わず声を上げた。僕も驚いた。
言わずとしれた関東の名門だ。そして、我が国における、最難関大の一つ。

「あくまで、目指してた、だけだけどね。」
カタクリははにかむように笑った。

「私たちは、目指す進路も似ていたし、抱える悩みも同じだったから、たちまち、仲良くなった。そして、それは気づいたときには、恋に変わっていた。」
カタクリはそこで、不意に、口をつぐんだ。
言葉が、思い出が、後から後から、口をついてきて、何から話せばよいのか、迷っている様子だった。

そうして、しばらく黙り込んだ後、
「で...、その年の秋に、」
ようやく言葉の糸口を見いだしたように、カタクリは継いだ。
「彼は、突然、姿を消したの。」

その別れ際つぶやいたのが、あの言葉だったという。

東京には、星がない。

「そんな、しようもないことって、私思ったわ。」
カタクリは笑った。その瞳は涙で濡れている。

「でも、彼は理由のないことは、しない人だった。何か理由があるって思った。」

カタクリはそれから、テツヤのいなくなった時間の中で、一人、その言葉の意味を考え続けた。
そして、彼が去ったわけを少しでも、理解しようと思った。

なぜだろう、何が、悪かったのだろう。
それを明らかにしない内は、前に進めない気がした。

「孤独だった。ただでさえ、支えが必要なときに、支えてくれるはずの人は、支えることを忘れて、かえって謎を残して、いなくなってしまったんだから」

むろん、試験勉強が、はかどるはずはなかった。
目の前の課題にすら集中できず、問題に取り組もうとしているようで、気がつくと、いつしか手元に残された、テツヤの掛けたなぞなぞをひたすらに解こうと、考えている自分に気づいた。

「その年の試験は」
カタクリは言った。はあ、と大きなため息をついて。
「落ちたわ。前年より、むしろ成績が落ちてたくらい。」
そう言って、また、力なく笑った。

涙が、ぼろぼろとこぼれた。
すかさず、シイタケがハンカチを差し出す。
おばあさんが、手ぬぐいを持ってくる。
僕は先を越されて、何かをしたくても、なすすべのないまま、その涙を見送った。

「ありがとう。」
カタクリは言った。
「ごめんね、」
とも言った。

涙を出し切ったとき、カタクリの瞳はまだ濡れてはいたが、すでに強い光に変わっていた。

「結局、その次の年も落ちちゃって」
カタクリは再び語り始めた。
「地元の大学に行くことにしたの。両親の薦めもあったし。でも...、」

「でも?」
シイタケは聞いた。気がつくと、おばあさんもいかにも心配そうな顔で、カタクリの顔をのぞき込んでいる。
おじいさんは、向こうを向いて、手に持ったたばこを吸い、煙を大きく吐き出した。
煙はおじいさんの前で燻り、けだるげに縁側の光の中に落ちて、静かに消えた。

「不思議な事ってある者ね。あるいは、縁というものかしら。合格発表の時にたくさんサークルの勧誘があったでしょう?あそこで、添田さんも勧誘してたの」
「ああ、」
シイタケが、うんざりした顔をした。
「知ってるの?」
僕は尋ねた。
「知ってるも何も」
シイタケは、その名を言うのもつまらないといった顔で、
「あの、カピパラよ」

「カピ...、添田さんは、」
カタクリは、少し居住まいを正して、
「添田さんは、そのとき熱心に私を誘ってくれて、いろいろと説明してくれたんだけど、その中に、この星見村のミステリーサークル造りの話もあったの。」
僕らにあれほど冷淡に接していながら、カタクリには積極的な勧誘をしたというカピパラを想像し、僕はあきれた。
あれで意外に、かわいい子には目がないのか。
あれに、その資格はあるのか?

「...あたしには、無言でチラシ渡しただけだったわ。」
シイタケは言った。
「...意外とシャイなのね。」

「星見村って名前は、」
カタクリは続けた。
「実は聞いたことがあったんだ。テツヤから。ちょうど、私の前からいなくなるちょっと前にも、数日間出かけていたの。私は、模試があるから出なかったけど、彼はそれを休んでまで。毎年この時期には、星を見に出かけるって言ってた」
星見村は名前の通り、非常によく星が見える事で有名なのだそうだ。この場所は高さもあり、街から遠いため、年中星がよく見えた。

「添田さんは去年も行ったって言ってたから、私、ちょっと迷ったけど聞いてみたの、こういう風貌の、男の人はいませんでしたかって。そしたら、居たって。」
カピパラは、黒ヤギとともに、この老人宅に泊まり、同じ釜の飯を食い、そして、一緒にサークル造りに汗を流したという。

ちょっと見た目暗かったけど、
話してみると、普通だった。

前歯を忘れた顔で、そう言っていたそうだ。

「私それから、相当動揺して。」
カタクリはそのときを思い出したかのように、自分の胸に両の手を当てた。
「もう二度と、会わないと思っていて、忘れようともしていた矢先に、こんな事になっちゃったもんだから。でも、気づいたら」
そう言うと、シイタケの方を向いて微笑んで、
「アカネちゃんに、私も混ぜてって、言ってた。」

「まだ、好きだって事?」
シイタケは尋ねた。
「もう、よく分からない。」
カタクリは言った。かすかに笑っていた。
「好きになって、放り出されて、悩まされて、苦労もして、それで忘れようとして、結局思い出して、またこんなことになって」
カタクリは何かを振り払うように頭を左右に振った。
まっすぐな髪が水のようにさらさらと揺れた。
「振り回されてるって考えても、腹が立つし、結局振り回されてる気がするし。それでも、いずれにしろ、」
カタクリは、そこで大きく息をつき、
「これで終わりにしたいの。」
と言った。

それは、悩むのを終わりにしたいという事だと、僕は思った。
その終わり方が、黒ヤギとの決別を意味するのか、それとも、関係の修復を意味するのか。
そのどちらなのかを、僕は更に本人に聞くことはできなかった。
おそらく本人も、どうなるのか、自分がどうしたいのかをそのとき、その場面になってみるまで、分からないと思っているのだろう。

「恋って、面倒なものよね。」
シイタケが、開き直ったように言った。
「好きだって単純に思っている内はいいんだけど、時間がたつごとに、」
短い足を畳に投げ出して、天井を見上げ、誰とは無しに、語りかけた。
「ちょっと恨んでみたり、誤解してみたり、疑ったり、それらが全部思い過ごしだったり、あるいは全部真実だったり。そうして、いろいろ、妙な色がごちゃごちゃと混じってきて、」
そこで、ふう、と息をついて、
「結局なにがなんだか分からなくなるんだけど、やっぱり遠くから見てみると、一つの恋なのよ。まるで...」

「使い古しの、男のパンツみたい」

...。せっかくいいところまで、言ったのを、なんだかすくわれた気がする。

僕の中には、ベランダにつるされた、おしりの部分の薄くなって、模様がくすみ、色が変わり始めた僕のパンツが、西向きの風に頼りなく揺れる様が浮かんだ。
恋とはつまり、あれなのか。

「ふふっ。そうかもね。」
カタクリは意外に納得している。

「でも、いつまでも、そのままじゃいけないわ。なんだか、みっともないもの」
カタクリは笑った。
シイタケも、併せて笑った。
僕はその姿を見ていた。なんだか、うれしかった。

おばあさん、おじいさんも、いつしか、微笑んでいることに、僕はその時ようやく気づいた。

2008-04-02

午前三時の妄想-2

Spring shower


開け放たれた扉が、主の不在を物語っていた。
女が帰宅したとき、そこに男の姿はなかった。

「マサト」女は呼びかけた。
「どこへ、言ったの?」

しかし、部屋の中から返事がない。
わずかに、男の酸えた臭いが、漂ってくるだけだ。

たった、15分程度の外出だった。
15分前、彼女がここを出るときには、彼はまだ、ここにいた。

それが、今やもぬけの空だ。
彼女は上がり込み、部屋の内部を調べた。
特に変わった様子はない。
彼が直前まで書いていた、なにがしかの書類は、机の上にまだ散乱しているが、
その散らかり具合も、いつもの彼の癖を反映したものに過ぎなかった。

「どこへ行ったの?」
女は再び問いかけた。
虚空に問うても、返事はない。
ただ、問いかけるよりいっそうの不安が、彼女を冷たく包むだけだった。

彼女はバスルームを開けた。
そこには、彼女が先ほど出かける前、体を洗った残り香がかすか漂っているだけだった。
バスルームの床はまだ塗れていた。

彼女は彼の靴箱を開けた。
彼の、いつも外出の時に履くスニーカーは、依然としてそこにあった。
しかし、彼がよそ行きの時に決まって履いていた、お気に入りの革靴はなくなっていた。

彼女は咄嗟に、手提げ鞄から、携帯電話を出した。
慣れた仕草で、彼の番号にかけてみる。

しばらく呼び出し音がした後、彼女は異変に気づいた。
どこかで、電話がバイブしている。
彼女は驚いて振り向き、部屋の奥に戻ると、彼のベットの上で携帯電話が震えていた。
その小さな液晶画面には、彼女の名前が表示されている。

彼女は彼との最後のつながりさえ、途切れてしまった気がした。
彼がどこに行ったのか、全く見当も付かなかった。
ほんの、ほんの数十分前まで、ここにいて、
「行ってらっしゃい」
などと、のんきな顔で言っていた彼が、突然、姿を消したのだ。
彼女に心当たりはなかった。

彼女はしばらく呆然として、なすべき事を考えた。
そしてふと、彼の携帯電話を手に取り、その着信履歴を覗いた。
その一番上には、先ほどかけた、彼女の名前があった。
そして、そのすぐ下には、名前の表示されない、電話番号だけの表示があった。
着信は、彼女が家を出て、すぐのようだった。

彼女は、自分の携帯電話を取り出し、その番号と合致する番号がないかどうか調べた。
しかし、そんな番号の知り合いは彼女にはいなかった。

だれなんだろう。
彼女の不安は募った。

この番号の人が、彼が急にこの家から出て行った理由を知っているのだろうか。
彼女は訝しんだ。
この番号は、誰だろう。

知らない人との電話で、彼がいきなり家を飛びな出すなんて事があるだろうか。
彼女には、彼が意図的に、この番号を登録しなかったのではないかと思われた。
しかも、彼は、いつもの履き慣れたスニーカーではなく、よそ行き用の靴まで履いている。
相手は、彼が何らかの理由で、気を遣う人間であることは、明らかだった。
また、彼女には、彼がおそらく電話で呼び出されていながら、肝心の電話を置いていった点が気になった。
よほどあわてていたのだろうか。

彼女はおそるおそる、その数字の羅列で表記された何者かにカーソルを合わせた。
そして、リダイヤルの操作を取った。

トゥルルルル...、

呼び出し音が、規則的に彼に向けて発信された。
しかし、いつまでたっても、その向こうに誰かの声が聞こえてくることはなかった。

トゥルルルル....、

彼女にはこの呼び出し音が、先の見えない濃霧の中で発信される、霧笛のようにも聞こえた。
それは周りにそれを受け取る対象がいない可能性を理解しながら、放たずにはいられない、不安の信号だった。

ガチャ

突如、規則性は破られた。

あ...、
「あのっ..!」

あなたのおかけになったでんわはげんざいつうわすることができません。
おるすばんせ....。

彼女はスピーカーから耳を話した。
通話は切った。

彼女は、ますます不安にさいなまれた。
そもそも、彼には、仕事が午後いっぱいかかりそうとは言ってあった。
しかし、彼女は駅のそばまで着いた時点で、空模様が怪しくなってきたのに気づき、
傘を取るために、家に引き返しただけだったのだ。
実際、彼女が家に着くまでに、ぽつぽつと雨が降り出し、今、外を見れば、窓硝子は泣き濡れた赤子のように、無数のしずくに濡れている。

彼は...、

彼女は思った。

彼は、傘を持って行っただろうか。

彼女はこんな時に、そんな些細なことを考えていた自分に気づいて、
皮肉な笑みを浮かべた。

そして、彼女はそこで、ふと気がついたのだ。
彼がもう、ここへは帰ってこないことに。

思えば、その兆候は前からあった。
彼女は近頃、彼がケイタイで誰かに電話しているところをよく見かけるようになった。
ただし、それが仕事の関係で、不特定多数と話しているのか、それとも特定の対象であるのかまでは分からなかった。
今、彼女は彼の通話記録を、過去へ、過去へとさかのぼっている。
先ほどの、彼女の直前にかかってきていた番号は、
頻繁に、時には、彼女の番号より多くリストに現れた。

そういえば、彼が最近ケイタイで話しているとき、
ずいぶん優しい声をしてたっけ。
彼女は微笑んだ。
あんな声を聞いたのは、つきあって、半年位までだったな。

彼女の脳裏には、そうしたいくつもの、具体的事実が後から後からわき上がってきた。
それ一つ一つは様々な解釈が可能なもので、都合よくとらえれば、別けなく握りつぶしてしまえるものだった。
しかし、一つのある決定的な疑惑に気づいた今となっては、それらの具体的事実は、彼女に、一つの結論を突きつけていた。

疑わないことが、優しさだと、思っていたのに。

彼女は思った。
嫉妬心から、彼の携帯をのぞき見するとか、
いちいち通話の相手を訪ねるとか、
そう言うことは、したくなかった。
彼も大人なんだし、いろいろなつきあいはあるだろうが、
その中でも彼女との関係は特別なものと認識して呉れさえいれば、
それでもかまわないと思っていた。

でも。

彼女は笑みを浮かべた、
涙はまるで瞳そのものがこぼれ落ちたかのように、止めどなくあふれた。

特別なものと認識したがっていたのは、私だけだった。
それは、勝手な思い違いだった。

ごめんなさい。

彼女は謝っている自分が、不思議でならなかった。

しかし、何度も口をついて出たのは、この、ごめんなさいという言葉だけだった。

どんな怒りも、憎しみの言葉も、胸の奥ではわだかまっていても、
体の表面で、涙にふれたとたん、それは謝りの言葉に変わった。

ごめんなさい.....。ごめんなさい...。

彼女は、誰もいなくなった部屋の真ん中で、先ほどまで彼の座っていた方向を向きながら、対象もないまま謝り続けていた。

彼の臭いは、開け放たれた玄関からの暖かく湿った風に紛れて、いつの間にか跡形もなく消えてしまっていた。
その風の中に、かすかな春の土の臭を彼女は感じた。

彼女の華奢な手の中では、彼の携帯が、彼が最後に受け取り、会話したであろう着信の電話番号を、かたくなに画面に表示し続けている。

2008-04-01

○▲□ (まるさんかくしかく) - 12




星見村に着いた僕らが、まず真っ先に向かったのは、地元の農業青年団の団長、安西さんのところだ。この方は毎年カピパラ元部長がお世話になっている方で、今回のミステリーサークル造りの総指揮をとっていらっしゃる方なのだそうだ。

村役場の向かい側に農業青年団の事務所があり、そこに僕らはそこの会議室に通された。事務所と言っても建物はプレハブの簡素な物で、会議室も、事務室の真ん中に簡単なソファとテーブルを置いた程度に過ぎない簡素な物だった。

会議室に通されると、ややしばらくして、中年のおじさんが現れた。

「やあやあ、よく来たね」

なかなか恰幅のいいおじさんで、誰だか知らないが相当に偉い人のようだ。
泥の付いたゴム長靴に上下の作業着。首にはマフラーのようにタオル。
“JAほしみ”と書かれた、野球帽をかぶっている。

「大学生かい」
「はい。一年生です」
そう言うと、おじさんは大げさに驚いて見せて

「一年生かい、しっかりしてるねえ。この間まで、高校生だったていうのに」
うちの子にも見習ってもらいたいよ、とおじさんは冗談めかしていって、
はっはっはあ、と豪快に笑った。大きな太鼓腹が波打つように揺れた。

背中に袋を背負わせたら、布袋さんかサンタクロースみたいになりそうな人だ。

この人は、誰なんだろう。
いきなり目の前に現れた福の神のような風体のおじさんに、僕らはあっけにとられた。

そんな僕ら三人の唖然とした様子に気づいたのか、
おじさんは、はははと申し訳なさそうに笑って

「私が、青年団の団長の安西です」
と言った。

青年団の団長って、おじさん、だったんだ...。

あたりを見渡すと、すでに、他の青年団の構成員とおぼしき方々が勢揃いしている。
ほとんどの方が、どう見ても中年だ。

「青年団って、言ってもね」
安西さんは言った。
比較的若い農家の集団ってだけで、本当に青年である必要はないんだよ。街から来る人、よく勘違いするんだけどね。」

比較的若い、と言っても、ほとんどが中年なのだから、おのずと、
この村の人口の構成が読めてしまう。
恐ろしく、過疎の集落のようだ。

「この村には元々、若い人は乏しいから。青年団も年々、高齢化していてね。君らのような若い活力が必要なんだよ」
安西さんは、手を後ろに組んで寂しそうに言った。

「今、農家はなり手が不足していて....、全く、土から離れたら、人間は生きていけないというのに、みんな街に行きたがる」
おじさんは、後ろを向いて言った。おしりも、おなかも、同じような人だと、僕は思った。

安西さんはしばらく感傷に浸っていたが、やがて身軽にくるりと振り向いた。
僕は昔、テレビでこういう体型のダンサーが軽快に踊る様を見たことがあったのをふいに思い出した。こういう丸形の人ほど動きがよい。普段から、自分の体を支えるために、足腰の筋肉が発達しているためだろうか。

「まあ、それはさておき、君たちと一緒に作業してもらう団員を紹介しましょう。オ胃!佐武朗刃稲画ガ!」
おじさんはそれまでとは打って変わり、突然意味不明な奇声を上げた。

すると、集まった団員の後ろの方から、出てきた者がある。

「あっ」
「あっ」

シイタケとカタクリが、ほとんど同時に声を上げた。後ろから出てきたのは、先ほど、子鹿を埋める穴掘りを手伝ってくれたあの好男子だ。

「うちで、一番若い方に入る、及川 佐武朗 (オイカワ サブロウ) 君だ。この辺は及川って名字が多いから、佐武朗って呼んでやって下さい」

佐武朗は一歩前に出てぺこりと頭を下げると、
「昨季波動モ、及川佐武朗デ巣。よろ氏具尾根解します。」
と、またしても意味不明な言を述べた。

「佐武朗面宇地っと表寿ンゴ者部レ音駕?」
安西さんが佐武朗になにやら言った。
佐武朗はすまなさそうに、頭をかいている。

「いや、この佐武朗は、学校に行ってもさっぱり勉強しなかったもんだから」
安西さんはあきれた様子で言った。
「標準語があまり上手ではなくて、このあたりの方言丸出しなのです。ちょっと聞き取り難い時もあるでしょうが、勘弁してあげて下さい」
佐武朗はそう言われて、また頭をかいた。他の団員達は、はははと笑った。
見た目より、ずいぶん若いのかもしれない。

「じゃあ、まず荷物を置いてきた方がいいでしょうから、今日明日泊まる家に、先にご案内しましょう。あとで、また来て下さい。ここから、もう少し、奥に入った沢のそばです。佐武朗に案内させますから、ついて行って下さい」


佐武朗の軽トラックの後について、僕らは一件の古民家に案内された。
「背ん所為ー!手で器多度ー!」
佐武朗がよく通る声でそう叫ぶと、ややあって、中から一人の老人が出てきた。

「やあ、よくきたねえ」
と、老人は応じた。相当な高齢らしく、背中もだいぶ曲がっているが、なんだか生来の品の良さを感じさせるおじいさんだ。

「あら、あら、」
後から、おばあさんも出てきた。こちらの方も、相当に品がいい。これほどの田舎に暮らしているのに、ちっとも泥臭さを感じない。

「こんにちは」
「こんにちは」
シイタケとカタクリが口々に言った。
「こんにちは」
やや言いそびれて、僕が言った。

「私が、斉藤留藏 (サイトウ トメゾウ) で、こちらが妻のトメです。」
老人は矍鑠として言った。

「弧ノヒト破斉藤旋性ダ」
佐武朗が言った。
「まあ、先生なんですか?」
カタクリが言った。
「あはは、先生と言っても」
老人は軽快に笑った。
「私は引退してもう、何年にもなります。最後に赴任したこの地区が気に入って、妻と住むことにしたんですわ。」
トメさんは夫のその話をにこにこしながら聞いている。
「この佐武朗も、私の教え子の一人です。」
留藏さんは言った。
佐武朗は、苦み走った渋い顔で、また照れたように頭をかいた。

「ところで...」
老人は佐武朗の方を振り向いた。
「今日泊まるのは、じゃあ全部で4人かな。」
老人がそう尋ねると、佐武朗はそうだ、と言うようにうなずいた。
「四人?誰か、他に来ているんですか?」
シイタケが老人に尋ねた。
「はいはい、先刻、お先に参られた方が。」

トメさんがそう言ったとたん、家の中から、一人の男が出てきた。

暗がりから表に出てきたその男は、すらりとした細身で、背は僕よりやや高いだろうか。黒い髪をぼさぼさに伸ばしていたが、不潔さは感じられなかった。ただ、全体的に、暗い印象を受けた。

「おでかけ、ですかな?」
留藏さんが、そう気さくにに声を掛けると、男は、ええ、とようやく聞き取れる声で手短に言って、近くに止めてあった車に乗ろうとした。

その際、ふと、こちらを見て、何か気になったのか、しばらく観察するようにしていたが、やがて、小さく左手を腕を上げて会釈すると、何も言わず、車に乗り込み、走り去ってしまった。

「あの子は、常連でねえ。」
トメさんが言った。
「去年も、一昨年も、そのもっと前から、手伝いに来ていただいているんですよ。この村が好きだそうで、いつも一週間ほど滞在していかれます。」

「なんて名前の方ですか?」
シイタケがおばあさんに尋ねた。

「テツヤ」
小さな声で、カタクリが言った。僕らは驚いて、振り向く。

「クロヤギ テツヤ...」
カタクリは、うつむいたまま拳を握りしめ、小刻みにふるわせていた。

午前三時の妄想

ううう...。
こんな時間に、下手に文章を書き始めると、
こういう事になる。

エイプリルの馬鹿.....。
マイルス...ごめんよ....?

ちょっと、大人の文章を書きたかっただけなのに...。

O沢、すまん...。
ちょっと不謹慎だ...。

だめだ...。
全体的に、不足だ...。

そもそも、経験が...、


この時間の、妄想力は、恐ろしい...。

せっかく書いたから、自分の記録のために載せるけど...、
こういうの嫌いな人と...、今幸せな人と...、
妊婦さんのいるご家庭の方は...、是非読まないで...。

--

Kind of blue


札幌午前三時。

僕らが会うのはいつも、その時間だ。
街はすでに寝静まっている。往来する車ももう無い。
しかし、僕らだけは、この死に絶えた街の中で、
二個体の生命として息づき、その過去に失われた交流を果たそうと、
夜の闇に咽いでいる。

君の声が聞こえる。
暗闇の中で、その出所は分からないが、僕はそれを探り当てようとしている。
君の、そんな声は初めて聞いた。あの頃から君は、長い時間の経過を経て、
僕の知らない、女性になっていた。


僕らはかつて一人だった。
僕らはどこへ行くのも一緒だった。
駅前の通り、小さなアーケード。
僕らだけの古いレコードショップ。
喫茶店。お気に入りの雑貨屋。
空の色、花の色、君の唇。
僕のものだった。どれも、これも全て。
君も、それを受け入れていた。全てが、僕のものになり、
同時に、君のものであるという生活を。
僕らはお互いの体すら、共有しつつあった。
それなのに。


また、声がする。
大きく、より深く。君はなにを求めているのか。
この部屋の闇を、臭いを君は嫌っているのか?
しかし、すでに世界は光を失って久しく、
君の努力は虚しく、ただ、声となって、砕け散る。
朝はまだ遠い。

声は、理性の首輪から解き放たれ、すでに自由を手にしていた。
それはもはや、喉を震わせる音に過ぎなくなっていたが。

今君は、一本の楽器でしかない。がらんどうになった胴体を支えて、
君は夜に泣いている。吹き込まれた空気は体の内部を通り、
喉の奥で反響する。君は一本の管。

中空の君に、もとのような充足をもたらすために僕は
君にひたすら風を送り込もうとしている。
君はそれに連れて、やせた喉を震わせている。

しかしそれは、天使の笛の音と言うよりは、地獄の叫びに聞こえる。
天を目指して昇っていくが、果てが見えてしまっている。

やがて、その喉は、絶えきれないほどの圧を掛けられた日には、
はじけて飛んでしまうのだろうか。

しかしその夜、僕には、君は、
そうなることを望んでいるように思えた。


もうダメなのよ、私たち。
久しぶりに出会ったとき、君はいった。
末期、ね。

その言葉を吐き出すとき、その指輪を失った左手は下腹部を軽く押さえていた。
君は以前は吸わなかった、たばこを吸っていた。
化粧もずいぶん、濃くなった。

君は、あの人と出会ってから、変わった。
聴かなかった音楽を好むようになり、
見なかった映画を見るようになり、
知らない言葉を使い、
知らない歌を歌った。
僕らの間では飲んだことのない、
強い琥珀酒も好んで飲んだ。

僕はそれを認めなかった。
君の心が、僕から離れた証拠だと、認めるわけにはいかなかった。
君の、多くの友人関係の中で、君が成長しているだけなのだと思うことで
僕はかろうじて、自分を保っていた。
それなのに。

彼は、君と全てを、新たに共有しつつあった。
君は、彼によって、新たに作り替えられていた。
僕の知っている君は、塗りつぶされようとしていた。
僕は耳を塞いだ。

沈黙の時間の中、再び君は現れた。
そのときも同じように、左手はそうして、優しく下腹部を、支えていた。

結婚することにしたの
君は言った。
あなたにも、祝ってもらいたくて。

私たち、"仲良し"だったでしょ?


より大きく、より深く。圧は高まっていく。
君はこの世界を、僕らを覆う、得体の知れない闇を、
その細身の体で懸命に吸い込もうとしている。
僕は君に風を送り続けている。
君のその闇を、少しでも早く、晴らしてあげるために。
闇はいっそう深くなる。僕らは闇に埋まりそうになる。
その闇から伸びてくる冷たい手を振り払うほどに
僕らは、僕らを見失っていく。

流れたの。
あの赤ちゃん。
君は昼間言っていた。

それから何度か、兆しはあったけど。
君はそこに手を添えていた。
ダメだった。

彼、子供が好きなのよ。
いっぱい作ろうねって。
君はかつて、言っていた。
僕の知っている君が、まだかすかに残っていた頃。

彼、それから浮気し始めたみたい。
数ヶ月もしないうちに、その女に会わされた。
左手に、私に呉れたのと同じ、指輪を付けてた。
そして、その左手は、静かに、おなかを支えてた。
私は...、

午前三時五十九分。
世界が止まる。
鳥が鳴き始める。
世界は目覚め始める。
日の光は、次第に、僕らを追いかけ始めた。

しかし、僕らの闇は晴れない。
太陽が昇っても、僕らは闇をふりほどくことができなかった。
闇の名残を、一身にまとったまま、僕らはまだ、一つの個体であり続けた。

やがて、一瞬の真空が僕らを包み、僕らはつかの間、
春の夢を見た。そして、その甘い花の香りもさめやらぬうちに、
僕らはすでに、また二人の人間に戻っていることに気づいた。
僕らの間にはすでに、届かないほどの暗い裂け目が開き始めていた。

君の中に残した風はまだ君の息を上げていたが、
やがてはそれも消え始める。
そうなれば、僕らは、また、かつての呪いでつながりをたたれた、
二個の生命に戻ってしまうのだ。

僕は、そのことが恐ろしくなり、
現に呼吸を続ける抜け殻のようになった君に体を押しつけた。
体はまだほのかに上気しており、
僕はその中に、君を見いだそうとしたが、
どこまで掘り返しても、君は見つからなかった。

抜け殻の君は、体の上でさまよう僕をしばらくそうして、
なすがままにさせていた。

と、やがて、僕の首筋に、そのすっかり痩せて細くなってしまった、左手を当てた。
そして、ゆっくりと、喉をさすると、心配しないで、とでも言うように
静かに、微笑んだのだ。

朝の光は、開け放たれた窓の隙間から狭い部屋を照らしている。
君の顔は、依然影になっているが、僕に差し出された小さな左手は、
その黎明の青い光を浴びて、失われた彫像の片腕のように、
しなやかな曲線を描いていた。


---
ううう....。
だめだ...。

団鬼六先生...。
私はこれまでです...。

やっぱり、俺は、純愛しか...。
しかも、かなわぬ片思いしか...。

書け...、ね...ぇ......。

2008-03-31

○▲□ (まるさんかくしかく) - 11

次第に近づいてくると、男の人はみるみる大きくなったような気がした。

背が高いばかりでなく、体格もよい。筋骨隆々といった感じだ。髪は短く、まだ30代に行ったか行かないか、と言った風貌だ。男の目から見てもかっこいいと思ってしまうほどの好男子だった。これでサーフィンでもやっていたら確実に、女の二十人や、三十人、ついて回るに違いない。

男の人は僕のすぐ隣まで来た。そして、呆然と見上げる僕のスコップをひょいと指さし、

「(^^)/、(^_^)、...(^_-)」

と言った。

何と言ったか聞き取れずに僕がなおも唖然としていると、彼は自分のしゃべったことが通じていないと分かったのか、さっきよりもゆっくり、はっきりとしゃべった。
「曽のスこっぷをおらに課してクレネ江部か」
僕はそれでも、何を意味しているか分からなかった。

彼はそれを見て思わず、参ったというように高く整った鼻からフン、とため息をつくと、僕が持ったスコップを奪って、穴を掘り始めた。

彼のたくましい背中は汗に濡れ、白いTシャツ越しに盛り上がったたくましい筋肉が見える。

気がつくと、カタクリもシイタケもいつの間にか僕のそばにいて、その光景を見守っている。

彼女らの目は、普段僕に向けられている目とは、明らかに違った。

冷静を装っていても、その瞳は、彼の引き締まった背中の筋肉の絶えまざる蠢き以外の何物をも見ていないことは、明白だった。僕が手を変え品を買え、あれやこれや、数少ない、自分にできることを精一杯して、男を売ろうとしていた矢先、彼は背中だけで、二人の女性を落としてしまった。

彼の仕事はすばらしく、穴はあっという間に掘り上がった。

そして、傍らの子鹿の死体を土に汚れた軍手でひょいとつかみ挙げると、穴の底に静かに横たえ、掘った土を戻した。

彼はそこで、僕らの方を振り向いた。よく日に焼けた引き締まった顔に、玉のような汗がきらめいている。彼はそれを、Tシャツの裾でぬぐった。その際、彼の格子窓の様に割れた腹筋が、ちらりと見えた。

ずきゅん
わずかに開いた格子窓の裏から、僕の両脇の二人の女は狙撃されたように思った。
おそらく二人とも、もはやこの世の者ではない。
目は、遠くあちらの世界へ逝ってしまっている。

「ナ二価、葉カい始でも奥部下」
「ええ、そうね。」
シイタケとカタクリはそう言うと、甲斐甲斐しく、近くの小振りな石を拾って、彼に渡した。
彼の大く黒い、グローブのような手の前では、シイタケの手は、赤子の手のように白く小さく見えた。

石を渡すため、その手にかすかに触れた瞬間、シイタケの体は電気が走ったかのように、ぴくりとふるえたようだった。

彼はその大きな手の中に、彼女らの選んだ石を入れると、それを先ほど子鹿を埋めた場所へ置いた。

どうやら、墓石にするつもりらしい。

そして彼は大きな手を合わせて、目をつむり少しの間祈った。大の男がそう言う行為を取るのは、健気ですらあった。

シイタケとカタクリもそれにならい、しっかりと手を合わせて祈っている。男を上げる企みも完全に失敗し、僕はもう、どうでもよくなっていたが、彼女らの手前、この上、更に優しさのない奴と思われるのは避けたかったので、とりあえず手を合わせて、祈るふりをした。

やがて男は立ち上がり、僕らを静かな目で見つめて、
「んでわ。」
と軽く会釈をして去った。
シイタケとカタクリは手を振って見送った。相当に名残惜しそうだった。


車に戻り、僕らは再び村に向けて出発した。

彼女らは、先ほどの男についてかっこいい、かっこいいと興奮しきゃっきゃと騒いでいた。

「こんな山奥にも、」
シイタケは明らかに鼻息が荒い。
「あんな、いい男がいるとは。」
「すごかったね、特にあの、背中!」
カタクリも、なんだかうれしそうだ。
「そこ~?あたしは、あのちらっと見えた腹筋かな?」

こんな筋肉談義で盛り上がれるのは、女の人か、ボディービルダーぐらいのものではないだろうか。男の体はたちまち鶏のように分解され、胸肉だ、もも肉だ、手羽先だなどと、ごく限られた箇所ごとに吟味される。挙げ句の果てに、もも肉好きだけど、胸肉はそんなでもない、と言う輩が出てくる点まで、よく似ている。

腹筋はやっぱり割れてる方がいいよ。

私は、ちょっとお肉が付いているくらいの方がカワイイと思うけど。

やだ、もー、ミズハちゃん、そう言う趣味なの?
でもあの人、腕もすごかったよね。

先ほどの彼は、すでに彼女らのまな板の上で、手足と胴体部とに、ばらばらに解体されているようだった。そのうち、耳の形やら鼻やら指やら、より詳細な部分の解析に入るのだろう。

僕は決して出てはいないが、主張もしない自分の腹筋を思い、スこっぷを使いこなせなかったこの二の腕を思い、何より、これほど一緒にいても、男として見向きもされないことを思って、いたたまれなくなったので、話題を変えた。

「でも、何で、あの人のしゃべったことが理解できたの」

シイタケも、カタクリも、突然僕から向けられた質問に、一瞬きょとんとしていたが、
「確かに聞き取りづらかったけど、何となく言いたいことは分かった。」
とカタクリが言って、シイタケも、うんうんと、うなずいていた。

「でも、アカネちゃん、あの男の人に石を渡したとき、なんかあこがれの先輩にボールを渡すマネージャーみたいだったよ」
カタクリがそう言うと、シイタケはでれでれと笑って
「そう?っへえ、ちょっと高校時代を思い出したかな。一瞬、自分がどっかにいっちゃいそうだった」
えー高校の時、何部?マネージャー、だったの?
女子バスケの選手だったんだけど、男子バスケにあこがれの先輩がいて...。

いつの間にか、この二人はすっかりうち解けてしまったようだ。
僕一人、すっかり自信をなくして、ふてくされ気味に、窓の外を見ていた。

山は、深さを増し、道路の下には、渓流も見えだした。この川沿いにしばらく走った先は大きく開けており、広々と田畑の続く場所に出る。

そこが目的地の星見村だ。

2008-03-30

○▲□ (まるさんかくしかく) - 10

近づいてみるとそれは、小さな、まだ幼い鹿の死骸だった。

「かわいそうに。」
「こんなに、小さいのに」
シイタケとカタクリは口々に言った。
子鹿の死骸は、顔の形はそのままだが、足はおかしな方向に曲がっていた。口と鼻に、わずかに血が流れた跡があった。

「うちらが引いたんでも、なさそうだ」
あたりに飛び散った血はもうすでにすっかり乾いていた。
腐敗はしていないことから、まだ死んでそう時間はたっていないのだろう。

「でも、つぶしちゃったから、なんか罪悪感を感じる」
シイタケが、珍しくしょげていた。確かに、子鹿の胴体はすっかりつぶれてしまっていた。

「ねえ、真島君、」
脇で見ていたカタクリがこちらを向いた。
「これ、ここには放っておけないよね。いつまでもここにあったんじゃ、また踏まれちゃうだろうし。」

確かにそうだ。この場所は道路に起伏があり、この死体は小さな坂を登り切って、少し過ぎたところにある。ドライバーにとってはよけきれない場所だ。

「せめて、埋めてあげよう。」
シイタケがそう言った。彼女は車に戻るとトランクの中をかき回し始めた。

しばらくそうしている内に、中からスコップが出てきた。
この地方は冬場によく雪が降るため、車に乗る前に、雪かきが必要になる。だから、大抵の車にはスコップを積んである。

彼女はそれを、夏が近くなった今でも、積んだままにしていたらしい。

彼女はその、先の赤いスコップを持ってこちらにまた戻ってくると、
僕にはい、と差し出した。
「あの辺がいいんじゃない?」
彼女はそう言って近くの何もない地面を指さした。

こういう仕事はなぜか自然と、男に回ってくる物だ。

僕は決して体格のいい方ではない。中学くらいの時には、ごく普通の女の子と腕相撲をやって、見事に負けたことがある。

さすがにあれからまた少し背も伸びたから、今はそう言うことはないだろうが、体力には自信がないのは変わらない。

だが、まさかだからといって、嫌がってシイタケにやらせるわけにも行かない。カタクリの手前、男らしいところを見せる場面ならどんな小さな場面でも、有効活用する必要がある。ただでさえ、勉強、スポーツ趣味特技、何をとってもダメなのだ。ここを捨てては、本当に、見せ場はない。

僕はスコップを手に取ると、何も言わずに、シイタケの指し示した場所へ向かった (男はいざとなると、ぶつくさ言わない物だ) 。そこはガードレールの裏側のわずかな盛り土の部分で、掘るのはさほど難しくなさそうだった。僕はスコップで死体をすくい上げ、そこをどかしてから、早速掘り始めたが、作業は思ったより大変だった。子鹿とはいえ、この時期になると、結構な大きさがあり、穴もその分大きくしなくてはならない。初夏の太陽はその間に、容赦なく照りつけ、外出を知らない僕の白肌を焦がした。

額から、背中から、脇の下から、汗がにじみ出るのを感じる。

カタクリはどうしているのだろうと、仕事の手を休め、後方を見ると、シイタケと並んで、開け放たれた車の座席に腰掛けていた。ちょっと縁側に腰掛ける、と言った格好だ。二人で何か話しているようだが、僕の方を気にしている素振りは全くない。

僕は、一人、損した気持ちを抱えながらも、それでも途中で投げ出すわけにも行かず、掘り続けた。


しかし、作業は一向に進まない。背中側になっていて実際は見えないが、シイタケやカタクリからの、『まだ、おわんないの...』と言う無言の圧力を、僕は次第に感じ始めた。

これでは、穴を掘っても、大して面目は、保てそうにない。
僕はなおさら損した気持ちになった。

そこへ、不意にエンジン音がして、一大の軽トラックが後続車として現れた。しかし、ハザードランプを付けたシイタケの車に気づいたのか、その後ろで止まった。

運転手が降りてくる。

汚れた白いTシャツと作業ズボンを履いた、背の高く色の黒い男の人だ。

この辺の農家の人らしい。
車の後ろに、大きな農業機械のような物を乗せている。シイタケ達はあわてて車を降りて、降りてきた男の人に話しかけた。事情を説明しているようだ。男の人は、日に焼けた太い腕を組んでそれをうんうんと聞いていたが、やがてこちらに向かって歩き始めた。

2008-03-29

○▲□ (まるさんかくしかく) - 9

さらに、自分で考えて、ちょっと怖く思ったのが、外から見たら、僕とシイタケが並んで、二人きりで、どこかにお出かけしているように見えてしまうのではないか、と言う点だ。

車の後部座席など、外からちらっと見たくらいでは、暗がりになっていて、よく見えない物だ。誰か、ふと、この目立つ車を見かけた人が、うっかり僕とシイタケしか認めなかったとしたら、それこそ天地の終わりだ。

ただでさえ、しばらくの間、事実上、僕らだけのサークルになっていて、変な誤解や偏見を生み続け、否定するのがやっとだったというのに。こんな衝撃的なシーンを押さえられたら、週刊誌に撮られた芸能人よろしく、明日の一面を飾ってしまうだろう。

「なーんだ。前から仲いいな、とは思っていたけどやっぱりね...。」
そんな同級生の白い目が、まぶたを閉じれば浮かんでくるようだ。

「あいつ、ああいう子が好きなんだ...。」誤解。
「そう言う、趣味なんだ...。」偏見。
「うけるん、ですけど」嘲笑。
「なあ、みんなで、応援しねえ?」余計な、お世話..。

やめてくれ...。


「真島君、顔色悪いよ」
カタクリが、後部座席から、僕の顔をのぞき込んだ。

なんて、きれいな人なんだろう。

カタクリとの恐怖の妄想におびえていた僕には、その眼差しが、地獄で救いの光を見つけたようにすら感じられた。間近に突きつけられた、カタクリの小さな顔を見て、改めて思った。

シイタケとは、大違いだ。

小さな顔の中の大きな瞳は、森の奥深く澄んだ湖のように濡れている。そして、その下には遠慮がちで、しかしけして主張しないわけではない唇が美しく咲いていた。しかし、表面の穏やかさとは対照的に、僕は白く透き通るような肌に差したかすかな茜色に、その肌の下をめぐる隠された一個の熱を認め、狼狽えた。かすかに香る柑橘系の香水。そして肌そのものが放つ香り。僕はもうその頃には、カタクリがそこいることにも慣れ、いちいちどきどきしなくなっていたはずだった。しかし、こうも、間近に突きつけられると、今までの遠くから見ていただけとは、全く感覚が変わってしまうのはなぜだろう。見ることと、においのように他の五感で感じることの間には、大きな差がある。僕は、カタクリの肌の温度まで感じてしまった気がして、思わずそれに見とれていた...。

車は突如がたりと揺れて、僕らは大きく揺さぶられた。

僕の体は、半ば吸い込まれるように彼女の、その麗しい口元へ...、


...行ったら、良かったのに。
この辺は、お決まりだ。


車は僕の方へ傾いたため、運転席と助手席に挟まるように、僕をのぞき込んでいたカタクリはそのままに、僕だけ思いきり、ドアに頭をぶつけてしまった。

「ありゃ...、よけきれなかった。何か踏んだかな。」
運転席のシイタケはそう言うと、車のスピードを落とし、路肩へ停車した。

すでに高速道は降りており、舗装されているとはいえ、山の中だった。シイタケは、後ろから、後続車が来ないことを確認してから、車を降りた。僕は、一瞬限りなく近づき、そして直ちに遠ざかった物に、相当な未練を感じ、遠ざけた何物かに憤っていた。

しかし、カタクリは余計に、音が鳴るほど頭をぶつけた僕を心配し、思わず僕の頭に手を当ててくれたので、僕の渇きは、すぐにいやされた。

車の中という密室に、二人きり。それを意識し始めると、僕はにわかに緊張した。静かな車の中で、カタクリの、息づかいが、聞こえる。ハザードランプの、かちかち言う音が、自分の心臓と、呼吸と、リンクし、同期し始めたかのようにも感じた。しかし、呼吸も、心臓も、その均衡を破り、努めて、前に出ようとする。次第に、荒く、激しくなる。その息づかいが、鼓動が、カタクリに聞こえてしまわぬかと心配すればするほど、余計それらは高鳴った。

う..うん。

後部座席で、カタクリが小さく咳払いした。居心地の悪さを振り払うようにも感じた。
このまま、こうしていたら、僕たちはどうなってしまうんだろう。
恐怖と、期待と、衝動のような物が、心の奥底にマグマのように沸々と煮えたぎっているのが見えた。

時間がたてば、このマグマはやがて、見境無く、あふれ出すだろう。
そんな気がしていた。

ハザードランプは、かちかち言っている。
僕らは息を潜めている。

このまま、このまま、シイタケが、永遠に、戻ってこなければいい。
僕はそこまで考えた。
後続車に...。

しかし、幸か不幸か、そうはならなかった。
彼女はどこまでも、僕らのふさぎ込んだ空間を壊すためにこそ、
存在しているのかもしれない。

シイタケは、すぐに車に戻ってきた、そして、運転席を空けると、僕に向かって、
「ちょっと降りてきて、」
と言った。

僕は、降りる気など毛頭無く、正直、勝手にしろとも思った。

しかし、僕の心とは裏腹に、カタクリはシイタケに倣ってすぐに車を降りたので、僕は車に残る動機を失った。
そして、彼女らに従って、僕も渋々車を降りた。


車を降りると、数メートルほど後ろで、シイタケが、道路の真ん中に転がった何か赤黒い物体を指さしていた。

2008-03-28

○▲□ (まるさんかくしかく) - 8

3

当日は驚くほどいい天気に晴れ上がり、空には雲一つ見られなかった。

朝見た天気予報では、日本全国に晴れマークが並んでいて、雨の心配など、全くせずに済みそうだった。出不精の僕でも、さすがに家の中にいるのがもったいなく想われるほどの快晴で、心配した暑さもそれほどではなく、まさにお出かけ日和と言ったところだ。

大学の前に留められたシイタケの車はピンクのビートルという軽自動車で、車そのものは、それなりに、かわいい。もちろん、こういう色は、乗る人を、相当選ぶとは思う。

シイタケの運転する小さな車に乗って、僕とカタクリとは毎年ミステリーサークルの現れる田舎の山奥の村に向けて出発したのだった。

こういう時の法則に従って、僕が助手席でカタクリが後ろ。

男の方が地図を読めるという、一種の脳の性差に基づく、勝手な棲み分けによりこういう事になっているのだろうが、車を持たず、普段地図をあまり見ない僕が、果たしてどこまで、この法則に従えるかは疑問だ。

話を聞けば、カタクリも車を持っているとかで、自分はさらに自信をなくした。地図をうまく読めず、現在位置を見失って、うろたえることは、必至だ。そんなとき、きっと助けてくれるのはカタクリだろう。あきれたようにためいき、つきながら。

彼女を助手席に乗せ、小脇に抱えるようにして、車をバックさせたり、ギヤチェンジのある車の方がかっこいいからとマニュアル車にする友人が大勢いて、そんな話を聞く度に、僕は永久に彼女などできないとあきらめたものだ。

政治家の必須の要素に『地盤・看板・鞄』と言うのがあるそうで、地盤は地元の支持、看板は知名度、鞄はお金のことだそうだ。この三つがそろわないと選挙には勝てないと言われているそうだが、僕はこれにたとえるならば、男に必要な要素は『特技・車・鞄』だと思っている。

車がないやつでも、スポーツだとか、料理だとか、一芸に秀でたやつは、女の人の関心を引きやすいし、車を持っていればなおさら、向こうもこちらも声をかけやすい。どこかへ一緒に出かけるのに、相手が車を持っているのは口実になる。

金を持っていれば、魅力的なのは言うまでも無し。ただし、もちろんこの三点だけで十分というわけではない。そこには『顔』という努力だけではどうしようもない、先天的要素が、多分に絡んでくる。

ただ、いくら考えたとしても、もてない男のひがみにしかならない。自分に足りない物を、あれこれと挙げてみては、おれにはないから無理だと、己を説得しているに過ぎないのだ。こうして、いつしか、恋愛することそのものさえ避けてしまう。これが一番の壁だとすれば、それは僕にとってあまりに高い壁だ。

いつ、このシイタケが道に迷ってしまい、地図を必要とするかという恐怖を抱えたまま、僕は助手席で身を縮めていた。

2008-03-27

○▲□ (まるさんかくしかく) - 7

「どうしたの?何か言いたいことがあったら、遠慮無く言っていいんだよ。僕らしか、メンバー、いないんだし」

我ながら、優しい言葉をかけたものだ。
自分の使ったことのない言葉の回路を使った気がした。

うつむいていたカタクリは、その言葉に、ふとその小さな顔を上げ、
大きな瞳を真っ直ぐに僕に向けると、にわかに微笑んだ。

その瞬間、バラ色の香りの中で、僕の思考は死んだ気がした。

「ええ、あのね、」
カタクリの声が、暑中の水の音のように涼しげに響く。
この、ガマとシイタケとの呪われた空間にあって、
その声は明らかに天に属する物のように聞こえた。

ええ、あのね...
ええ、あのね...
ええ、あのね...
思考を失った僕の頭の中で、その声は甘く反響した。

「わたしは...、行ってみたいんだ、その村に。」

甘い夢を打ち破られ、娑婆に魂を取り戻した僕と、
先ほどの笑顔が凍り付いたままのシイタケは、思わず顔を見合わせた。
なぜ?お互いの顔にそう書いてある。

「ごめんね、話がまとまりかけているときに」
カタクリが、そう申し訳なさそうに言った。
僕は全てを許してもいいと思った。

「なんでまた?」
シイタケが、分からない、と言う顔をして尋ねた。

「それは...、まあ、なんて言うのかな、せっかく人に期待されているわけだし。行ってあげたら喜ぶんじゃないかな、と思って。」

やさしい。僕は感動した。
やさしい。優しさとは、すなわち君のことだ。

「そりゃあ、喜ぶだろうけど...、私たちが行くまでのこともないんじゃない?」
優しさという物を理解できないシイタケは不徳な問いを重ねた。

「まあ、そう言ってしまえばそうだけど、こういう体験て、ひょっとしたら私たちだからできることなんじゃない?そう思うと、せっかくの機会がもったいなく思えるんだよね」

人生とはすなわち一期一会。
一つ一つのその機会は、人生で唯一のかけがえのない物なのかもしれない。
そう言う気持ちで生きねばねえ。

「うーん、なるほどね...。そう言われると、私も惜しい気はしてきた...。」
さすがのシイタケも、カタクリ嬢の徳の高い言葉の前に屈したのか、心変わりを始めた。

聖女に諭された野獣。これは一つの聖画(イコン)だ。

「でも」

野獣は簡単には牙を捨てない。

「あまり得る物はないような気がするよ。それだったら、むしろ花火大会行かない?確か同じ日だったはず」

シイタケの言う花火大会とは、毎年ここから南に少し行った市で行われるもののことだ。これは県外にも有名な全国的な行事で、三大花火の一つにも数えられているという。
一流の花火師達が、この晴れ舞台のために、一年中アイデアを練ると言うから、その華やかさは相当な物だ。

僕は、花火に照らされたカタクリのほほえみを想った。

いつの間にか浴衣と団扇だ。花火大会には実際には蚊がつきもので、その対策のために、蚊取り線香くさくてしょうがない事もあるのだが、そんな些細なこと、僕の妄想の中には全く介入する余地はなかった。

浴衣、花火、ほほえみ...。

浴衣、浴衣、ほほえみ...。

浴衣、浴衣、浴衣...

「ゆか...、花火も、いいかな」
多少うわずった声で、僕も賛同した。
意見に賛同してあげたのに、思いの外、シイタケの目線が冷たい気がした。

「...花火も...、確かに、いいけどね...」
カタクリは困ったように微笑んだ。
「でも誰でも見られる花火より...、私たちにしか、見れない物をみたいな」
意外に、意志は硬いらしい。

「分かった」
ついには、シイタケも折れた。
「そこまで言うなら、行きましょう、みんなで。確かにあなたの言うことも一理あるし。それにしても、ミズハちゃん、意外と強情なのね!」

シイタケはこういう粋な振る舞いが実は好きなのかもしれない。
自説を曲げたにしろ、なんだかうれしそうだった。

僕らは当日の予定を話し合った。
村まではシイタケの車で向かい、お昼前までに着く。カピパラから聞いた話では、着いたらまず担当の人に会い、おそらく打ち合わせがてらお昼と言うことになり、作業は午後からになるだろうと言うことだった。


打ち合わせが終わって帰り際、シイタケが僕を呼び止めた。
「真島君、馬鹿ね」
いきなり何を言い出すのかと想った。
「全部顔に書いてあったわ」
シイタケがふふ、と笑った。僕はとっさに花火のことか、と思った。
「花火のこと、あたしが持ち出したとき」
シイタケはそこでまた、ふふ、と笑った。
「浴衣姿のこと考えてたでしょ、あたしたちの
片方、余計だ。
「まあ、見せてあげても、良かったんだけど、またそれは、来年にお預けかな。」
残念だったね。シイタケは、小狡そうに笑って、そう付け加えた。
変な位置に、えくぼができた。

もしかするとこいつは、そのために、わざとカタクリの意見に折れたのではないか。
そんな気がしてきた。

「ああ、楽しみにしてるよ...」
僕はそう言い残して、カタクリの着崩れた浴衣姿を努めて思い描きながら、帰路についた。

2008-03-26

Jazz黄門、厭世の道

【今日やったこと】
PCR, 泳動、細胞培養、SDS-PAGE、
研究室の模様替え。

新入生多数。
相当賑やかになりそう。

きゃっきゃしてる。

前からいた男も、新しく来た女も。

若けえ。

枯れすすき
青葉の色を忘れたり

駄作。

◇◇◇

何日か前に、マイルス・デイヴィスのCDを買って、テイク違いだったけど、それを聞いている、
と言うことを書いた。

でも結局、ある時、衝動的に欲しくなってしまい、
ついにまた同じものを買ってしまった。

やっぱり、あれは特別なのです。
自分にとっては、なぜか。

最初にしびれた、ジャズだからかな。

ロックも好きだけど、どうしても、歌詞が付くと、

『きみを、愛してた。
どこ行ってしまったんだ。
君無しでは、生きていけない

僕が馬鹿だった
許しておくれ』

的なものが多くなり、悪くないけど、なんだかナヨナヨしている気がして、
「いつまでも、グダグダしてんじゃねえよ!」
と突っ込みを入れたくなるし、その元気もないようなときには、余計にふさいでしまって、
あまり気持ちが前に進まない。

そんなときは、そんな男のボーカルのキンキンナヨナヨした曲は聴きたくないし、女の人の声は、なおさら聞きたくなかったりする。

そう言うとき、やっぱり、ジャズが恋しくなるのですわ。
最近は、特に。

ムード・ジャズみたいに(あのハスキーな管楽器のやつ)、ピンクの妄想が自然と広がってくるものは、落ち着かないけど、マイルスの時代のものは、響きが冷静で、アップダウンも少ないし、気持ちを静めてくれる気がする。

嘆いても、叫んでも、笑っても、どこか、冷静な自分が、それを見ている。
そう言う、落ち着いた涼しい空気が、スピーカーから流れてくる気がする。

竹林の影の、小さな庵。

そういうところに佇むような、静かな気持ちになる。

まあ、やっぱり曲によるんだけどね。

人より二回りぐらい、老け込むのが早いな、おれ。

そのうち、誰より早く、隠居して、出家でも、するのかも。

同世代の諸君、後は、頼んだ。時代は、君たちのものだ。

○▲□ (まるさんかくしかく) - 6

毎年現れるという点で、すでに何らかの人為的な物を感じざるを得ない。

どこの宇宙人が、地球の都合で勝手に作られたカレンダーに従って、
ミステリーサークルを作るんだ?

僕は、この話には乗れなかった。
さすがのシイタケもそれには同感だという。
「だって、高速に乗って、時間かけて、わざわざ、農家のおじさん達が作った、ミステリーサークル見に行くわけでしょう?」
シイタケは言った。
「何で農家のおじさんなんだよ」
僕は尋ねた。
「聞いたよ。何せ、去年のミステリーサークルをカピパラ部長が見に行ったとき、間違って前日に着いちゃって、手伝わされたって言ってたもん。」


...僕はカピパラ元部長が、農家の人と麦畑の中、ミステリーサークル造りにいそしんでいる姿を想像した。

熱い夏の太陽が、カピパラと、農家のおじさん達の額を、容赦なく照りつける。

たちまち滴る玉のような汗。

テカる頬、前頭、頭頂、あるいは後頭。

しかし、その表情は、みんな、なぜか眩しいほどの笑顔だ。

「おやつにすべえー!」

農家のかみさんの、救いの声が、聞こえる。


「だからあの村では、今年もうちの学生が手伝いに来るのを、楽しみにしてるんだってさ。」
労働力として。シイタケの言葉に、僕は夢もそがれる思いだった。何で、こんなサークルに入ってまで村おこしの手伝いをしなくてはいけないのか。そう言うことは別に、そう言うことを望む、ボランティア精神に富んだ人たちの集団がこの大学にもたくさんあるはずだ。

「いや、たいていのそう言うサークルは、みんな正義感が強いから。そういう、うさんくさいことは、詐欺まがいだとか言って、非協力的らしいよ。」
「詐欺だろう。どう見ても」
UFOが作ったと言ってウソをついて、人を集めるのだから、詐欺と言われてもしょうがない。
コウベ牛だと言って、輸入牛肉の焼き肉を食べさせたり、コーチンだと言って、普通のニワトリの肉を食わせるのと、たいした違いは無いじゃないか。

「でもねえ、気持ちは分かるのよ」
シイタケが感慨深げに言う。
「あの村、特に名産品があるわけじゃなし、せいぜい麦と豆ぐらいしか育たなくって、観光の目玉になるような物は何もないの。それに、ミステリーサークルそのものが十分うさんくさいから、みんな見に来る人たちは、半分承知で来ているんだと思うけど。騙されたくって来てるんだから、騙すのもサービスでしょ。どっかの夢の国と大差ないじゃない」

夢を売る商売と、ウソを白々しく平気で売るのとはちょっと違う気がしたが、どこが違うのかと言われれば説明できない。相手がウソと知っていていれば、それは許されるのだ。マジシャンは種も仕掛けもないことはしないし、魔法だって使えない。夢の国で夢の生き物たちの背中が割れて、おばさん達が顔を出したら、むしろ怒られるだろう。たとえ、そちらのほうが真実だとしても。

「だからねえ、そう無下にもできないわけよ」
「じゃあおまえは、行きたいのかよ」
僕はそれでも行きたいとは思わなかった。何でこの暑い中、わざわざ汗かくようなことをしなくてはいけないんだ。

「それとこれとは話が別」
シイタケは意外とクールだ。
「手伝いたいのは山々だけど、それはそもそも私たちのグループの趣旨とは違うし、なにより」
シイタケは窓の外の強い日差しを見つめた。
「白肌には毒だわ」

僕はあえてここで、シイタケの容姿について、とやかく言うつもりはないが、僕が彼女を、頭の中でシイタケと呼んでいるのには、それなりの理由があると言うことだけ、言っておこう。彼女はあくまでシイタケであって、まかり間違っても、ブナピーではないのである。

「まあ、そう言うことだから、カピパラ部長の顔をつぶすようだけど、今回は無しにしましょう。いいじゃない、あの顔、これ以上つぶれようがないわ」
そう言うとシイタケは、はははと笑った。

そんなシイタケはさておき、僕は先ほどから何も言わず、うつむいたままのカタクリが気になり出した。大きな瞳が足もとの一点をとらえたまま動かない。何かを、思い詰めている様子でもある。こんな連中とはいえ、初めて参加したのだから、言いたいことを言えずにいるんだろうか。

「樋口さん、」
僕はカタクリに声をかけた。

2008-03-25

○▲□ (まるさんかくしかく) - 5



カタクリ嬢の加入により、僕のサークルへの本気度は俄然高まったのは言うまでもない。

それはそうだ。シイタケなどと顔をつき合わせているより、カタクリにもしや、見られているかもしれないと意識するだけで、無様なまねはできなくなる。

友人達を見る限り、これは、自分だけでもないと思うのだが、男というものは、たった一人女の子がその場にいるのといないのとでは、その快活度がまるっきり違ってしまうものだ。

昔、ある薬品関係の会社のCMで、だらしない格好のだめ男達のところに、かわいい新人のマネージャーが現れたとたん、彼らはファッションを改め、突然さわやかなおじさま達に変身してしまうと言うのがあった。

そのCMは『触媒』についてのCMで、かわいい女の子を、だめ男達を紳士に変える触媒にたとえたというわけだ。あそこまで極端でなくとも、だいたい似たようなものだ。強い野球部にはかわいらしいマネージャーがつきものだし、得意教科の先生は、きれいな女の人だったりする。

僕は実際、高校の3年の頃、苦手だった国語の先生が、学校で一番きれいな女の先生になり、それで前年度3割り増しに成績が上がった経験がある。もちろん、それは僕に限ったことではなく、クラスの男子、ほぼ全員がそうであったのだが (一部嗜好の異なる者を除いて) 。

他の授業は寝ているくせに、国語になると一睡もしないばかりか、積極的に手まで挙げる男どもを見て、クラスの女子達は、さぞあきれたことだろう。しかし、その女子とて、英語の時間に教育実習の若い大学生が来たときには、目の色変えて話しかけていたものだ。

いずれにしろ、僕にとって、カタクリは十分『触媒』たり得る人だ。この力を得て、やる気無く、活力もなく、ぐうたらと時間をつぶす、しょうもない僕とは、今日限りおさらばしたいと思った。


カタクリの加入する少し前くらいから、僕らの間ではある一つの計画が持ち上がっていた。それは、大学のある街から、80kmほど北に行った所にある、とある農村に、“毎年現れる”というミステリーサークルを、探索しよう、という話だ。