モノクロが、できたかも。
勢いつけてまたウェスタン。
これもうまくいけば...。
うまくいくかなあ。
正月の街を歩いた。
確かに、日こそ暮れていたが、
札幌の街の中心部だというのに、人影はもうまばらで、
道行く人も少ない。
遠くに見えるマンションの窓という窓は、まだ遅い時間でもないのに、
明かりが消えたまま、生活のにおいすら消えてしまっている。
休んでいるのを見たことのない、電気店も、コンビニも、市庁舎も
どうやら無人となっているのだろう。看板にすら、明かりが見えない。
この街はもはや、街として機能していない。そのことをひしひし感じる。
お正月を探しに、街へ出たのに、目に映る物物に、正月の色はなく、時折、無人のビルの内窓の中に、申し訳程度の小さなしめ縄飾りや、門松を見つける程度だった。
門から入る邪を払う門松は、誰もいないビルの玄関の中で、ひっそりとたたずんでいる。
守るべき人が居るでもないのに。
どこまで行っても、正月がない。
自分の探している正月が。
昨日降った大雪が、昼間に溶け、また凍り始めており、足下はかなり悪かった。
歩くのに早々に疲れ、もう引き返そうと思い、ふと、思った。
自分の探している正月など、この街にあるはずはないのだ。
都市にとって、正月とは人がいなくなることなのだから。
自分の探している正月は逆に、会えなかった人に、会えることなのだ。
街が、仕事をして、お金を稼ぐという、共通の目的を持つ人々の集まりであるなら、
そういった、いわば人間の煩悩は、大晦日の除夜の鐘とともに雲散霧消し、
一時的であれ、街はその存在意義を失って、静まりかえる。
人々は、仕事のために犠牲にしていた家族を思い出し、それぞれの故郷へ帰っていく。
まるで、今までの華やぎが、何か演劇のような一種の“うつつ”だったかのように。
でも、誰もいない街。これが本来の姿なのかもしれない。
仕事のことさえ、問題にならなければ、誰しも、家族をおいて遠く離れた土地まで、やって来はしないだろう。
みんな、働いている。いくつもの心配と、不安を故郷に置いて。
こんな時でもやっている、マックで遅い昼食を食べ、コンビニで、飲み物を買い、こんな時すら、明かりが減ることのない、病院の入院棟の小窓一つ一つに、小さくため息をついて、正月すら家に帰らない、親不孝で、世間ずれした息子は、白い息つき、小部屋にこもった。