【今日やったこと】
実家から帰ってきた。
家について、晩飯食べて、『風林火山』を見て、
「オンナってこわい」と思いつつ研究室へ帰ってきた。
前回やったコロピーがイマイチだったので、やり直し中。
一週間もぐうたらしていたので、無駄に気合が入っている。
こういうときは、十中八九失敗する。
覚悟している。
帰省は船だった。
苫小牧から出向して、仙台に至る、『太平洋フェリー』を利用して帰省した。
優雅な船旅、なんてものにあこがれたということもあるが、何より船は飛行機などに比べ1/3の料金で帰省できることが大きい。
7月初めから8月の終わりにかけて、旅客業の各社は、程度の差こそあれ、夏料金期間を設けている。
飛行機、なんてやつは最もひどく、いつもは早期予約割引で、下手すると半額以下にまで割り引いてくれるくせに、夏の時期、特にお盆のあたりはまったく融通が利かなくなる。
片道3万円弱なんて、誰が払ってられるか。お盆くらいは、実家に顔を出そうという、市民のつつましい義務感を逆手に取り、その足元を見ているとしか考えられない。非道の所業である。
私はこの料金の落差に不条理感すら覚え、絶対乗るもんかと心に決め、とりあえず夏料金でもさほど値段が上がらないフェリーを帰省の手段として採用することにした (要するに、けちなだけである)。
フェリー、特に、今回乗ったような、一晩かけて目的地にたどり着くような大型のものでは、大部屋に板張りで雑魚寝の2等客室から、高級ホテルの一室を思わせるスウィートルームまで、5-6段階の料金がある。
一番安い料金で約8千円、高いもので5万円近くと、その幅は非常に広い。つまり、あの船の中には、世の勝ち組と負け犬が同居しているのである。まさに、社会の格差の縮図だ。
無収入な私の選んだのは、もちろん最もチープな雑魚寝の2等客室である。その上さらに、学生割引で一割ほど引いてもらった。おそらく私は、あの船に、最も安い料金で乗った人間の一人であろう。
あれほどの大型船に乗ったのは、私にとっては、生まれて始めての経験だった。乗ってみるとそれは、海を走る、まさにホテルだった。下手な旅館より、ずっと設備が良い。
海の見える風呂があり、ゲーセンあり、フロントあり、売店あり、お酒も出すラウンジや、レストランまであった。私は、ホテルに着いたばかりの小学生がするように、船内を意味も無くうろつきまわり、ああすげえ、こんなものもある、あんなものもあると、一人で興奮していた。
しかし、こうして無闇にうろつきながらも、私は内心、デッキへ出るための出口を探していた。
6年ほど前、佐渡島へ渡る小型のフェリーに乗ったとき、私は、船のデッキを吹き抜ける潮風を体感し、そのすがすがしいまでの開放感がいまだに忘れられずにいたのだ。
いざデッキへの出口を見つけ、重い鉄扉を開けて外へ飛び出した時、デッキ上にはまだ誰も居なかった。
私は一番乗りをしたという喜びと、俺こそがこの船一番のフェリー通だという、身勝手な自負心と、おそらく同時にこの船一番の変わり者だという、恥ずかしい気持ちが入り混じった、複雑な感動を覚えた。
その後すぐに、他の乗客もデッキに現れ始めたので、デッキが私のものだった時間は、せいぜい数分であった。
船は、空を茜色に焦がす、大きな夕日が北海道の山中に沈んだ直後に出航し、そろそろと、南下を始めた。初めは多くの人がデッキに出てその出航の瞬間を見逃すまいと目を見張っていたのだが、いざ港を離れてしまうと、日もとっぷり暮れ、真っ暗で、何も無い景色に飽きてしまったらしく、三々五々、船内に戻り始めた。
私が他人に誇れるものは、ただ、無駄なことに対する、根性だと思っている。
私は、もう一度、このデッキを、我が物にしたかったため、全ての人が帰るまで、2時間近く、薄暗いデッキで粘っていた。
次第に気温は下がり、風は強くなり、髪の毛は潮風でべたつき、もじゃもじゃになった。
それでも私は、粘り続け、やがて、最後のカップルも船内に入るに至り、あらかじめ船内の自販機で買っておいた、スーパードライを開けた。
天気はイマイチで星も無い夜だったが、薄い雲を通して、おぼろげに月の姿は見て取れた。月食の前日だったので、月はほぼ満月であった。
私は、吹き抜ける、冷たい、べたつく潮風に、ただでさえ天然パーマのあたまを、なおさらもじゃもじゃさせながら、月下独酌を決め込んだ。
だいぶ安っぽいが、しごく満ち足りた時間であった。
とはいえ、その夜は、体が冷えて寝付けなかった。
その上、大部屋で相部屋になったおじさまは、一晩中、エンジン音にも勝る、大音量のいびきをかいておられ、私の安眠を、ことごとく阻害した。
仙台港から、実家に向かう車の中で、私は始終、爆睡していた。
注)
二等客室の若造とスイートルームの令嬢との出会いは、当然のことながら、無かった。
流氷も、SOSも。
全てが、極めてノーマルな航海だった。