次第に近づいてくると、男の人はみるみる大きくなったような気がした。
背が高いばかりでなく、体格もよい。筋骨隆々といった感じだ。髪は短く、まだ30代に行ったか行かないか、と言った風貌だ。男の目から見てもかっこいいと思ってしまうほどの好男子だった。これでサーフィンでもやっていたら確実に、女の二十人や、三十人、ついて回るに違いない。
男の人は僕のすぐ隣まで来た。そして、呆然と見上げる僕のスコップをひょいと指さし、
「(^^)/、(^_^)、...(^_-)」
と言った。
何と言ったか聞き取れずに僕がなおも唖然としていると、彼は自分のしゃべったことが通じていないと分かったのか、さっきよりもゆっくり、はっきりとしゃべった。
「曽のスこっぷをおらに課してクレネ江部か」
僕はそれでも、何を意味しているか分からなかった。
彼はそれを見て思わず、参ったというように高く整った鼻からフン、とため息をつくと、僕が持ったスコップを奪って、穴を掘り始めた。
彼のたくましい背中は汗に濡れ、白いTシャツ越しに盛り上がったたくましい筋肉が見える。
気がつくと、カタクリもシイタケもいつの間にか僕のそばにいて、その光景を見守っている。
彼女らの目は、普段僕に向けられている目とは、明らかに違った。
冷静を装っていても、その瞳は、彼の引き締まった背中の筋肉の絶えまざる蠢き以外の何物をも見ていないことは、明白だった。僕が手を変え品を買え、あれやこれや、数少ない、自分にできることを精一杯して、男を売ろうとしていた矢先、彼は背中だけで、二人の女性を落としてしまった。
彼の仕事はすばらしく、穴はあっという間に掘り上がった。
そして、傍らの子鹿の死体を土に汚れた軍手でひょいとつかみ挙げると、穴の底に静かに横たえ、掘った土を戻した。
彼はそこで、僕らの方を振り向いた。よく日に焼けた引き締まった顔に、玉のような汗がきらめいている。彼はそれを、Tシャツの裾でぬぐった。その際、彼の格子窓の様に割れた腹筋が、ちらりと見えた。
ずきゅん
わずかに開いた格子窓の裏から、僕の両脇の二人の女は狙撃されたように思った。
おそらく二人とも、もはやこの世の者ではない。
目は、遠くあちらの世界へ逝ってしまっている。
「ナ二価、葉カい始でも奥部下」
「ええ、そうね。」
シイタケとカタクリはそう言うと、甲斐甲斐しく、近くの小振りな石を拾って、彼に渡した。
彼の大く黒い、グローブのような手の前では、シイタケの手は、赤子の手のように白く小さく見えた。
石を渡すため、その手にかすかに触れた瞬間、シイタケの体は電気が走ったかのように、ぴくりとふるえたようだった。
彼はその大きな手の中に、彼女らの選んだ石を入れると、それを先ほど子鹿を埋めた場所へ置いた。
どうやら、墓石にするつもりらしい。
そして彼は大きな手を合わせて、目をつむり少しの間祈った。大の男がそう言う行為を取るのは、健気ですらあった。
シイタケとカタクリもそれにならい、しっかりと手を合わせて祈っている。男を上げる企みも完全に失敗し、僕はもう、どうでもよくなっていたが、彼女らの手前、この上、更に優しさのない奴と思われるのは避けたかったので、とりあえず手を合わせて、祈るふりをした。
やがて男は立ち上がり、僕らを静かな目で見つめて、
「んでわ。」
と軽く会釈をして去った。
シイタケとカタクリは手を振って見送った。相当に名残惜しそうだった。
車に戻り、僕らは再び村に向けて出発した。
彼女らは、先ほどの男についてかっこいい、かっこいいと興奮しきゃっきゃと騒いでいた。
「こんな山奥にも、」
シイタケは明らかに鼻息が荒い。
「あんな、いい男がいるとは。」
「すごかったね、特にあの、背中!」
カタクリも、なんだかうれしそうだ。
「そこ~?あたしは、あのちらっと見えた腹筋かな?」
こんな筋肉談義で盛り上がれるのは、女の人か、ボディービルダーぐらいのものではないだろうか。男の体はたちまち鶏のように分解され、胸肉だ、もも肉だ、手羽先だなどと、ごく限られた箇所ごとに吟味される。挙げ句の果てに、もも肉好きだけど、胸肉はそんなでもない、と言う輩が出てくる点まで、よく似ている。
腹筋はやっぱり割れてる方がいいよ。
私は、ちょっとお肉が付いているくらいの方がカワイイと思うけど。
やだ、もー、ミズハちゃん、そう言う趣味なの?
でもあの人、腕もすごかったよね。
先ほどの彼は、すでに彼女らのまな板の上で、手足と胴体部とに、ばらばらに解体されているようだった。そのうち、耳の形やら鼻やら指やら、より詳細な部分の解析に入るのだろう。
僕は決して出てはいないが、主張もしない自分の腹筋を思い、スこっぷを使いこなせなかったこの二の腕を思い、何より、これほど一緒にいても、男として見向きもされないことを思って、いたたまれなくなったので、話題を変えた。
「でも、何で、あの人のしゃべったことが理解できたの」
シイタケも、カタクリも、突然僕から向けられた質問に、一瞬きょとんとしていたが、
「確かに聞き取りづらかったけど、何となく言いたいことは分かった。」
とカタクリが言って、シイタケも、うんうんと、うなずいていた。
「でも、アカネちゃん、あの男の人に石を渡したとき、なんかあこがれの先輩にボールを渡すマネージャーみたいだったよ」
カタクリがそう言うと、シイタケはでれでれと笑って
「そう?っへえ、ちょっと高校時代を思い出したかな。一瞬、自分がどっかにいっちゃいそうだった」
えー高校の時、何部?マネージャー、だったの?
女子バスケの選手だったんだけど、男子バスケにあこがれの先輩がいて...。
いつの間にか、この二人はすっかりうち解けてしまったようだ。
僕一人、すっかり自信をなくして、ふてくされ気味に、窓の外を見ていた。
山は、深さを増し、道路の下には、渓流も見えだした。この川沿いにしばらく走った先は大きく開けており、広々と田畑の続く場所に出る。
そこが目的地の星見村だ。
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