泳動は続く
思索も
あの日東京が滅んだ後も
人々はいつもの自然災害の時のように
復興に向けて歩き出したのだが
いざ復興してみると
できあがったのは
依然と変わらぬ社会だった
一度滅んだからと言って
子供達の給食からピーマンが除かれることはなかったし
宿題が少し減ることもなかった
お母さん達はやっぱり
お父さんの給料のことでぶつぶつ言っていたし
お父さん達はやっぱり
かみさんのことで頭を悩ませていた
おじいさんおばあさんが突然奮起し
往年の若き青春の日々を再び取り戻そうと老骨にむち打ち朗らかに日比谷公園を闊歩する
事はなかったし
NEET達が
日本経済の今後の展望について
各紙論説委員の主張の相違点を総括し2チャンネル上で白熱の議論をすることもなかった
引きこもりは相変わらずアウトドアとは無縁だったし
詩人達はやっぱり世間とは縁がない
全てはあまりに当然で
以前の不自然が懐かしくなるほどに
退屈な日々が帰ってきたのだ
若者達はスリルを求め
脱法すれすれの行為を
夜ごと繰り返してはいたが
それすら一つの壊滅を挟んで
ずっと続いていたことだ
当たり前だった生活を
当たり前でない出来事の後で
当たり前のようにしてみせる
人は東京が滅んだとき
それが己が権利であるかのように
あるいは新たな闘争であるかのように
拳振り上げ戦ったのだが
結局至るところは
街のはずれのひなびたお化け屋敷で
ありふれた恐怖をむさぼる日々
非日常という物を栄養素のように
必要としていながら
日常という足場から
軸足を移すのをためらっている
それを平和というのなら
欲求不満の固まりだ
人間という動物に組み込まれた
戦闘モードの神経回路は
今日もバッティングセンターで
バットを正しく握るために
ノルアドレナリンをテノヒラに
とりあえず分泌している
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