2008-04-02

午前三時の妄想-2

Spring shower


開け放たれた扉が、主の不在を物語っていた。
女が帰宅したとき、そこに男の姿はなかった。

「マサト」女は呼びかけた。
「どこへ、言ったの?」

しかし、部屋の中から返事がない。
わずかに、男の酸えた臭いが、漂ってくるだけだ。

たった、15分程度の外出だった。
15分前、彼女がここを出るときには、彼はまだ、ここにいた。

それが、今やもぬけの空だ。
彼女は上がり込み、部屋の内部を調べた。
特に変わった様子はない。
彼が直前まで書いていた、なにがしかの書類は、机の上にまだ散乱しているが、
その散らかり具合も、いつもの彼の癖を反映したものに過ぎなかった。

「どこへ行ったの?」
女は再び問いかけた。
虚空に問うても、返事はない。
ただ、問いかけるよりいっそうの不安が、彼女を冷たく包むだけだった。

彼女はバスルームを開けた。
そこには、彼女が先ほど出かける前、体を洗った残り香がかすか漂っているだけだった。
バスルームの床はまだ塗れていた。

彼女は彼の靴箱を開けた。
彼の、いつも外出の時に履くスニーカーは、依然としてそこにあった。
しかし、彼がよそ行きの時に決まって履いていた、お気に入りの革靴はなくなっていた。

彼女は咄嗟に、手提げ鞄から、携帯電話を出した。
慣れた仕草で、彼の番号にかけてみる。

しばらく呼び出し音がした後、彼女は異変に気づいた。
どこかで、電話がバイブしている。
彼女は驚いて振り向き、部屋の奥に戻ると、彼のベットの上で携帯電話が震えていた。
その小さな液晶画面には、彼女の名前が表示されている。

彼女は彼との最後のつながりさえ、途切れてしまった気がした。
彼がどこに行ったのか、全く見当も付かなかった。
ほんの、ほんの数十分前まで、ここにいて、
「行ってらっしゃい」
などと、のんきな顔で言っていた彼が、突然、姿を消したのだ。
彼女に心当たりはなかった。

彼女はしばらく呆然として、なすべき事を考えた。
そしてふと、彼の携帯電話を手に取り、その着信履歴を覗いた。
その一番上には、先ほどかけた、彼女の名前があった。
そして、そのすぐ下には、名前の表示されない、電話番号だけの表示があった。
着信は、彼女が家を出て、すぐのようだった。

彼女は、自分の携帯電話を取り出し、その番号と合致する番号がないかどうか調べた。
しかし、そんな番号の知り合いは彼女にはいなかった。

だれなんだろう。
彼女の不安は募った。

この番号の人が、彼が急にこの家から出て行った理由を知っているのだろうか。
彼女は訝しんだ。
この番号は、誰だろう。

知らない人との電話で、彼がいきなり家を飛びな出すなんて事があるだろうか。
彼女には、彼が意図的に、この番号を登録しなかったのではないかと思われた。
しかも、彼は、いつもの履き慣れたスニーカーではなく、よそ行き用の靴まで履いている。
相手は、彼が何らかの理由で、気を遣う人間であることは、明らかだった。
また、彼女には、彼がおそらく電話で呼び出されていながら、肝心の電話を置いていった点が気になった。
よほどあわてていたのだろうか。

彼女はおそるおそる、その数字の羅列で表記された何者かにカーソルを合わせた。
そして、リダイヤルの操作を取った。

トゥルルルル...、

呼び出し音が、規則的に彼に向けて発信された。
しかし、いつまでたっても、その向こうに誰かの声が聞こえてくることはなかった。

トゥルルルル....、

彼女にはこの呼び出し音が、先の見えない濃霧の中で発信される、霧笛のようにも聞こえた。
それは周りにそれを受け取る対象がいない可能性を理解しながら、放たずにはいられない、不安の信号だった。

ガチャ

突如、規則性は破られた。

あ...、
「あのっ..!」

あなたのおかけになったでんわはげんざいつうわすることができません。
おるすばんせ....。

彼女はスピーカーから耳を話した。
通話は切った。

彼女は、ますます不安にさいなまれた。
そもそも、彼には、仕事が午後いっぱいかかりそうとは言ってあった。
しかし、彼女は駅のそばまで着いた時点で、空模様が怪しくなってきたのに気づき、
傘を取るために、家に引き返しただけだったのだ。
実際、彼女が家に着くまでに、ぽつぽつと雨が降り出し、今、外を見れば、窓硝子は泣き濡れた赤子のように、無数のしずくに濡れている。

彼は...、

彼女は思った。

彼は、傘を持って行っただろうか。

彼女はこんな時に、そんな些細なことを考えていた自分に気づいて、
皮肉な笑みを浮かべた。

そして、彼女はそこで、ふと気がついたのだ。
彼がもう、ここへは帰ってこないことに。

思えば、その兆候は前からあった。
彼女は近頃、彼がケイタイで誰かに電話しているところをよく見かけるようになった。
ただし、それが仕事の関係で、不特定多数と話しているのか、それとも特定の対象であるのかまでは分からなかった。
今、彼女は彼の通話記録を、過去へ、過去へとさかのぼっている。
先ほどの、彼女の直前にかかってきていた番号は、
頻繁に、時には、彼女の番号より多くリストに現れた。

そういえば、彼が最近ケイタイで話しているとき、
ずいぶん優しい声をしてたっけ。
彼女は微笑んだ。
あんな声を聞いたのは、つきあって、半年位までだったな。

彼女の脳裏には、そうしたいくつもの、具体的事実が後から後からわき上がってきた。
それ一つ一つは様々な解釈が可能なもので、都合よくとらえれば、別けなく握りつぶしてしまえるものだった。
しかし、一つのある決定的な疑惑に気づいた今となっては、それらの具体的事実は、彼女に、一つの結論を突きつけていた。

疑わないことが、優しさだと、思っていたのに。

彼女は思った。
嫉妬心から、彼の携帯をのぞき見するとか、
いちいち通話の相手を訪ねるとか、
そう言うことは、したくなかった。
彼も大人なんだし、いろいろなつきあいはあるだろうが、
その中でも彼女との関係は特別なものと認識して呉れさえいれば、
それでもかまわないと思っていた。

でも。

彼女は笑みを浮かべた、
涙はまるで瞳そのものがこぼれ落ちたかのように、止めどなくあふれた。

特別なものと認識したがっていたのは、私だけだった。
それは、勝手な思い違いだった。

ごめんなさい。

彼女は謝っている自分が、不思議でならなかった。

しかし、何度も口をついて出たのは、この、ごめんなさいという言葉だけだった。

どんな怒りも、憎しみの言葉も、胸の奥ではわだかまっていても、
体の表面で、涙にふれたとたん、それは謝りの言葉に変わった。

ごめんなさい.....。ごめんなさい...。

彼女は、誰もいなくなった部屋の真ん中で、先ほどまで彼の座っていた方向を向きながら、対象もないまま謝り続けていた。

彼の臭いは、開け放たれた玄関からの暖かく湿った風に紛れて、いつの間にか跡形もなく消えてしまっていた。
その風の中に、かすかな春の土の臭を彼女は感じた。

彼女の華奢な手の中では、彼の携帯が、彼が最後に受け取り、会話したであろう着信の電話番号を、かたくなに画面に表示し続けている。