2008-04-07

○▲□ (まるさんかくしかく) - 15

5

僕らが畑に着いた頃、青葉揺れる麦畑はすでに、大勢の及川さんで溢れていた。

「尾胃!、一郎!小後ハ名II型屋?」

「氏家具!」

「佐武朗、手津田得」

「王!」

よく見ると麦畑の中、あの好男子・佐武朗もあくせくと働いている。
長いひもの付いた板で、麦を踏みつけ踏みつけ、平らにならしていく。

若い佐武朗は確かに筋骨たくましいが、周りの及川さん達も、日頃農作業しているだけあって、それなりにたくましい体つきをしており、佐武朗にはないアダルトな魅力を、そのかすかな加齢臭とともに、あたりに漂わせていた。

畑にはあらかじめロープが張られ、それが図形の目印になる。

佐武朗の肢体が動く度、若い筋肉が別の生き物のように蠢く。

「ほらあたし達も!」
シイタケの瞳は、爛々と輝いている。獲物を狙うハイエナ、エサを前にしたトカゲ。みんな、こういう顔をしている。

シイタケは当然のように、佐武朗の後ろに立って、手伝い始めた。

「うん!」
カタクリはそれまで羽織っていたものを脱いで、Tシャツ姿になった。
白くて長い腕が、シャツの袖からすらりと伸びている。
その白さに、思わず目がくらんだ。

作業していた無数の及川さん達も、その姿に一瞬手元を休めた。
そして、鼻の下をゆるませたまま、手元だけは黙々と作業を再開した。
心なしか、アダルトな魅力が、あたりに充ち満ちてきたように感じる。

正直、この黒い男だらけの畑の中では、カタクリの容姿は、一種場違いにすら見えた。

しかし、本人はいたって気にせず、どんどん畑の奥に入っていく。

その跳ねるような足取りに先ほどまでの暗さはもうなかった。
細い足で若駒のように軽く、畑の奥へ駆けていく。

一方のシイタケは、その決してブナピーではない体色もさることながら、作業する手つきが、初めてとは思えないほど様になっていて、驚かされた。

ねえちゃん、うまいねえ、

無数の及川さんの一人がそう言ったのを受けて、シイタケは照れたように笑って、

ええ、向いてるみたいだから、ここにお嫁に来ましょうかねえ、

と軽口をたたいた。
大勢の及川さん達はみんな笑った。

では佐武朗の嫁御に来たらいいべよ

そうだ!そうだ!

そう言われて、シイタケはまんざらでもなさそうだったが、
佐武朗はちょっと困った顔をして、恥ずかしくなったのか、前も見ずに作業をしていた。


僕も、ぼんやり立ってみているわけにも行かず、彼女らと一緒に一枚の板に足を乗せた。

左から順に、シイタケ、カタクリ、僕。
三人で、一枚の長い板に片足を載せて、三人一脚、といった感じだ。

「ほら、いち、に、いち、に」
シイタケが、拍子を取り始めた。

「いち、に、いち、に」
カタクリも、それに併せる。

「..いち、に..いち、に..」
僕は多少拍子はずれになりながら懸命に彼女らの拍子を追いかけた。

こういうときに、その人間の、生来の器用さというものが出てしまう。
初めての作業を、いとも簡単にやってしまう人間がいる一方で、初めてのうちは、とにかく失敗ばかりする人間というのがどうしてもいる。

僕は元々後者の方で、しかも努力嫌いの不精者だから、これまで、何か身につけたもの、と言うのが一切無い。特技がないのもそれに由来する。

努力は、楽しいから、続くのだ。失敗してばかりで、つまらない思いしかしなければ、誰だって止めたくなってしまう。つまらなくても、とにかく続けていると言う人間は、口ではそう言っていても、実はそれが好きなのか、それとも変わった性癖をしているのではないかと、疑わざるを得ない。

そう言う意味では、僕は健康だ。
でも今は、失敗しても、置いて行かれても、この作業を続けようと思う。

隣がカタクリだから?


そうだとも。

面倒でも、うまくいかなくても、それを上回る喜びがあるうちは、喜んで続けることができる。

何せ、彼女は僕の触媒なのだから。

「いち、に、いち、に」
「いち、にいち、に」

カタクリの息が弾み出す。長い髪を頭の後ろで束ねているので、きれいな首筋が、顎の線が、くっきりと見える。束ねた髪が、まさに馬のしっぽのように、前後左右に揺れていた。

僕は自分の頭のすぐ脇にある“それ”に気を取られて、足下の作業に集中するのに、苦労した。

どきどきと、心臓が高鳴る。これは作業の所為なんだか、カタクリの所為なんだか、もはや分からなかった。

シイタケも、カタクリの向こう側で、へえへえと息を切らし始めている。

すぐ前を進んでいた佐武朗はいつの間にか遠くなっている。
さすがに、いつも体を動かしている人間は違う。


同じ、人間なのに、と言う気がしてくる。
ここまで、なんにもできない人間と、あそこまで、タフな人間が、どうして同じ人間と言ってられるのか、僕は不思議な気がした。


僕はここで、あることに気づいた。
そう言えば、いるはずの黒ヤギがいない。

やつは、すでにここに来ているはずなのに、少なくとも僕の目の届く範囲には、その姿が見えない。

今のカタクリは、完全に作業に集中しており、息を切らしながらも、その顔にはうっすらと笑顔を浮かべている。何かに集中している子供のように、あどけなく、そして、いとおしくなるような表情をしている。
彼女が黒ヤギを見つけたら、少なくとも、この表情は壊れてしまうだろう。僕は、彼が、僕らの前に、永遠に現れないことを心の底から祈っていた。



そのまま、その作業を2時間ほど続けただろうか。

もうすっかり足も持ち上がらなくなり、息も上がってしまった頃、

土手の方から
「おやつにすべえー!」
と、大きな救いの声がした。

フライドポテト

フライドポテトを食べていると、

自分が馬にでもなった気がしてくる。

あの細長くてひょろひょろしたものを、口から何本もはみ出させ、それを次第に舌と唇を上手に使って口の中にたぐり込んでいく作業は、飼い葉を食べる、馬のそれに似ている。

ぼくは、ハンバーガーを食べるときには野人であり、
フライドポテトを食べるときには馬になり
コーヒーをコップで飲む段になって初めて、文化的な人間の香りを漂わせる。

けんくんたいへんだよね、いつもいそがいしいもの
ああ、おれだけきょうしごとなんだ
隣の二人組が話しをしている。
40人もいるのに?あいつらみんなやすみなの?ところで、やすみってなんじまでなの?
ああ、もうじかんだ

そう言うと、男は立ち上がり、つられて女も立ち上がった。

彼らは、初め馬であり
そして、一時は野人にもなったようだが、
最後には文化人になって、時計を見ることを思い出したようだった。

女は使用した机の上を、ポテトに付いてきた紙ナプキンでさっと拭くと、
男とともに悠々と自動扉をくぐって行った。

彼らを何となく見送った後、
目を正面に戻すと、
向こうの席の知らないお兄さんと不意に目があって、
彼がまだ野人であったようだから
ぼくは急いで馬に戻った