2008-04-08

○▲□ (まるさんかくしかく) - 16

振り向くと、トメさんと、数人の及川夫人が、皆、手提げ袋を持ってこちらにやって来た。

「助かった」
思わず、シイタケが声を上げる。
「みんな、ぐんぐん前に進もうとするから、私、足が攣りそうだったよ。」
短い足と、ふくらはぎを、拳で下からぽんぽんと叩きほぐした。

「はあ、私も。ほんと疲れたね。」
カタクリも、安堵した様に息を吐いた。
その額には玉のように汗が輝いている。


踏みつぶした麦畑の一角に車座になって、みんなでおやつを食べた。

おやつと言っても、店で売っている物ではなく、
トメおばあさんの作ったおはぎやお団子、
この村の麦で作ったという、麦飯のお握りなど、
ほとんど食事と言っていいほどのボリュームだ。


実際、佐武朗を初め多数の及川さん達は、よく働く分、
おなかも相当に空くらしく、それらを貪るように食べ尽くすと、
時間を惜しむようにごろりと横になり、あっという間に眠ってしまった。

僕も、カタクリもシイタケも、食べた後にはどっと疲れが出てきて、
だんだん眠くなったので、同様に青草の上に寝転がった。

鼻のすぐ間近で、青い麦葉のにおいがする。
鼻に鋭く入ってくるのは、土のにおい。
しかし、ずいぶんと長いこと、忘れていたようなにおいだ。

ごろりと天を仰げば、高い空に、取って付けたような白い雲が見える。
小さな鳥が、目の片隅をつがいで通っていく。

どこかで、名前も知らない鳥が、
2度、甲高く鳴いた。

「こういうの、ひさしぶり」
すぐ隣で、カタクリの声がした。

「ほんとうだねえ」
シイタケも言った。
「久しぶりとは思うけど、最後はいつだったか、もう覚えてないんだよねえ。」

「たぶん、」
カタクリが答えた。
「きっと摺り込まれているんだよ。こういう記憶がみんなの中に」

「生まれる前から?」
僕が言った。

「生まれる前から。」
カタクリが答えた。
「なんて、あんまり理学部らしくもなかったかな。」
カタクリはそう言って、笑った。

「詩人だねえ、ミズハちゃん」
眠そうな声でシイタケが言った。
「詩人だよ。」

「詩人だよね、あたしは」
カタクリは言った。
小さなため息が聞こえた。
「思えば、形のない物ばっかり、追いかけてた。
目の前のことは何も考えずに、この2年、過去のことにずっと縛られてた。」
それは、黒ヤギのことだろう。そう僕は思った。

「今を生きなきゃ、始まらないのに。」
カタクリの瞳は身じろぎもせず、青い空を見すえていた。
天の青さが、その瞳の中に宿っている様に見えた。


シイタケはいつしか、眠ってしまったようだ。
グウグウと寝息が聞こえてくる。

「ねえ、真島君?」
カタクリの瞳が、ふいに僕の方を向けられた。
頭上の青さを、それは微かに反射していた。

「そう言えば、下の名前、聞いてなかったね。なんて言うの?」
「...徹也。」
僕は答えた。自分の名前を人に教えるのを、
わずかにでも躊躇したのは、これが生まれて初めてだった。

「テツヤ、か」
そう言うとカタクリは再び天を向いた。
その口元は、かすかに微笑んでいる。
「私、さっき聞いちゃったんだけど」
カタクリは話した。
「このイベント、最初に始めたの、テツヤみたいなの」

僕は驚いた。しかし、考えてみれば、
それは、至極納得のいくことだった。


カタクリは話した。
テツヤは、試験勉強の中、星を見るために、この星見村にやって来た。
天体観測は、確かに、彼の昔からの趣味ではあったが、そんな大切な時期にそんな悠長なことをしていたのだから、それは実際には現実逃避だったと言っても良いだろう。

そして、こののどかな星見村の自然に触れ、
東京にはない、無数の星々の海におぼれて、
自分の努力していることの意味を見失ってしまったらしい。

勉強してもしなくても、生きてはいける。
それは当然のことなのだが、試験勉強に躍起になっている受験生は、
見逃してしまう事実だ。

黒ヤギはこののどかな村で、星の下で、その事実に突き当たった。

彼はその時、留藏さんの家に民泊していた。
留藏さんは昔から、星を見たさに他所からやって来る人々に
部屋を提供していたのだそうだ。

そして、留藏さんの話から、黒ヤギはこの村のかかえる貧しさを知ったらしい。
それを聞いて、半ば目標を失いかけていた黒ヤギは、
彼にできることで、村おこしをしたいと提案した。

天文ファンだった彼が選んだのは、ミステリーサークルだった。

実際海外では、このような町おこしのために人造ミステリーサークル造りが
行われた例があるらしい。

しかし、彼の本当の目的はそれとは別なところにあった。
彼は、そうやって、宇宙に興味を持つ人を集めて、
この村の星空をもっと多くの人に見てもらおうと考えていたらしい。

そうしてこそ、本当の村おこしは出来ると考えたのだ。

「それで、今はアルバイトしながら」
カタクリは続けた。
「年に一回ここに来て、このイベントを仕切っているんだって。」
カタクリはそこで、ふっと笑った。

「馬鹿だよね。」
彼女は僕を見た。その瞳は、今にでも泣き出しそうな位、涙に濡れていた。
彼女は、しかし、その濡れた瞳を真っ直ぐに空に向けた。

彼女の瞳に映ったものは、確かに青い昼の空だった。
しかし、彼女が本当に見ていたのは、この太陽の青い幻覚の向こう側にある、暗い夜空だった。黒ヤギの心を奪っていった、おぼれるような星空を、彼女は今しも泣き出しそうな瞳のまま、挑むように凝視した。

「...星がない、って言うから、どんな哲学的な意味かと思っていたら...。
そのまんまだったんだ。なんのひねりも、深い意味も。私はそのなかに、私を巻き込む、何かの示唆を見いだそうと、ずっとずっと、手探りしていたのに。」

彼女は笑った。そして、つかの間、僕に背を向け、そっと目頭を押さえた。
「馬鹿だよ。」

そんな馬鹿な理由のために、私は一人になったんだ。
彼女の背中は、そう語っているように見えた。

しかし、それはほんのつかの間だった。彼女はすぐに顔を上げ、
とびきりの笑顔を、僕に見せてくれた。

また、みっともないとこ、見せてごめんね。
彼女はそう言った。

先ほどまでの涙は、もうすっかり乾いていて、
目頭に少し、濡れた跡を留めただけだった。

「徹也君、ね」