2011-03-21

悲報に接して

猪又聡先生

先生のご悲報に接し、未だに紡ぐ言葉が見つからないでいます。この度の震災の報を聞き、親しい人、大切な人に少なからず犠牲が出ることは、覚悟していたつもりでありましたが、実際それが、猪又先生であったとは誰が予想したことでしょうか。

私たちの世代は、猪又先生が戸倉中学へ赴任してきた当時、中学2年生でした。以来、先生と、私たちの学年との交流は、現在まで、正確には、あの憎むべき震災のあった瞬間まで続いていました。先生にとってはある意味では一過的な、一世代の教え子に過ぎなかった私たちと、先生は、学校での付き合いより、ずっと、ずっと長い期間、交流を続けてこられました。それは私たちの世代だけにはとどまりません。先生の在任中の全ての中学生達、父兄、地域の方々が今同じ気持なのではないかと思います。何故あの人だったのか。その疑問はしかし、いつまでも解決されることはないまま、私たち一人ひとりの中に永遠に残され続けるのでしょう。

仕事の関係で赴任してきただけであるはずの南三陸戸倉に、先生がどうしてここまでこだわり続けられたのか、卒業と共に多くがふるさとを出た私たちには、正直わかりませんでした。戸倉には、必要なものが何も無いような気がして、必要なものをよそに求め、私たち教え子の多くはそれぞれの都会へ、巣立って行きました。

しかし、先生の悲報に触れ、故郷の悲しみを知るにいたって、私たちはようやく気が付きました。必要なものが、故郷になかったのではなく、そもそも、何も必要なかったのだと。故郷というものがあれば、それで良かったのだと、みな気付かされたのです。私たちは再び、その悲しみを共有しようとしています。自由が許されるなら、その場に駆けつけていきたい気持ちは、皆同じです。それが許されないことはもどかしく、辛いことです。誰よりも私たちの故郷を愛した先生は、そのようなことはとうに知っていらっしゃったのかもしれません。我が身でそれを教えようとしてらっしゃったのかもしれません。しかし尋ねるには遅すぎました。私たちの故郷は流され、そして先生も失ってしまいました。今はもう、悲しい気持ちだけが、胸をいっぱいに覆い尽くしています。

先生が守ろうとした故郷を、今度は私たちが再興させねばなりません。それは遠く、あまりにも重い課題です。しかし、到達不能な目標ではありません。夜空に光るいくつもの星の光は、数百万年も前にその星から放たれた光の粒子が、今私たちの頭上に降り注いでいるのだと、先生は教えてくれました。故郷を発った私たちの都会の空に見える光は小さく弱いものですが、もう元の故郷の空を忘れることはないでしょう。少しずつでも、その復興に力を注ぎ、また元のような、先生の愛した町を蘇らせようと一人ひとりが胸のうちに定めています。

どうかその時まで、
我々を見守っていてください。

平成10年卒業生 一同
代筆 須藤洋一