2011-03-17

ホタルの光

先日亡くした中学の恩師に関する、友人のブログを読んだ。
http://ameblo.jp/tomtomradioheadyork/entry-10831103898.html#cbox

こんなこと、言ってたっけ、あのひとというのが正直な感想。
猪俣聡は理科の教師で、私たちが中学二年生くらいの時に、30歳くらいの学年主任として田舎の戸倉中学に赴任してきた。学年主任としては、私たちが最初の生徒だったらしい。

正直、嫌な先生だった。
いや、先生にとっても、私は嫌な学生だったに違いない。
私は理科が好きで、知識をひけらかすのはもっと好きで、何歳も年上の先生相手に、張り合うことを楽しみとしていた。先生とはブラックホールの話もしたし、なんだか今だにわからない量子力学の話もしたし、宇宙論の話もしたし、ホーキングの話もした。

いろいろな子供向けの科学者の漫画伝記を持っていて、それを教室においておいて、自由に読ませてくれた。

そのくせ、授業ではいつも当ててくれなくて、テストでどんなに頑張っても、ほとんど褒めてくれなかった。私は、嫌な生徒だった。先生にとってもそうだったに違いない。アインシュタインが祖父だと言っていた。私はそんな話信じなかった。天パー意外、何も似ていないじゃないかと思った。

よくトランペットを吹いていた。ジャズが好きだと言っていた。金ピカの金管楽器に、ミュートを取り付けて、ただでさえ大きめの顔を、フグみたいにふくらませて、ぷうぷうと吹いてみせた。私は、音楽はあまり聞かないといった。先生は、アインシュタインはバイオリンを弾いていたといった。そんなことは、どうでも良かった。

私は高校に入り、生物学を選んだ。大学も、生物系の大学へ進んだ。先生や、アインシュタインの物理学は選ばなかった。私に、数学の才能がないことを痛感していたこともあったが、先生への反発がないかと言われれば、否定出来ない。私は先生が嫌いだった。あまり、一緒にしてほしくなかった。

大学も後半、教育実習生として、戸倉中学に帰る機会があった。先生はすでに、戸倉中学にはいなかったが、教職員組合の組合員として、近所に残っていた。私が翌日の授業の準備でひいひい言っているところに、のんきに現れて、茶飲み話をして、去っていった。一言の助言すらなかった。自分がとった、学位の論文を嬉しそうに見せたりとか、せいぜい、そのぐらいだったように記憶している。先生の風上にも置けない人だと思った。

大学を卒業し、大学院に入り、そしてそれが後半になっても、先生は戸倉に居座り続けた。
30代で学年主任につくというのは、将来を嘱望されてのことだったのではないかと思ったが、彼はそんな道を捨ててしまっているようにすら、私には思えた。もっとあちこちの、大きな都会の学校を渡り歩けば、自ずと偉く慣れたのに、どうして、あんななんにもない、片田舎の中学校に、こだわり続けたのか、私にはわからない。

今年の正月、同級生が集まった席に、当然のように彼も姿を表した。
毎年そうだった。ドラえもんのジャイアンのように、でっかいお腹と態度で、教え子の飲み会の場で、ふんぞり返っているのだ。たいてい、最初から飲んでいて、最期まで飲んでいた。私と話すときは、いつも研究の話だった。私は、しつこい彼に少々面倒も感じながら、何時までも、そんな話ばかりをしていた。

そんな彼も、津波で死んだということだ。
さんざん、人のうちのウニを食い、魚を食い、挙句の果てに、故郷でもないこの土地で海に飲まれるなんて、何の冗談にもなっていない。その上、私の故郷の人間を、誘導していて波に飲まれたなんて、あの人らしくない。腹がでかくて、足が遅いんなら、逃げるべきだった。自分にも、ふるさとがあって、支えるべき両親がいるのだろうから、その人達を悲しませないように、するべきだった。どうかしていると思う。ちっとも、理性的では、無いと思う。ひどい話だと思う。身勝手だと思う。

私は、あの人より賢くなって、中学校の時のように、またひけらかしてやろうと密かに楽しみにしていた。しかし、おかげでそんな目論見も、なにもかも、流されてしまった。あの人の好きだった、地元の深い海のために。

あの人に、今こそ言ってやろうと思う。
「青は藍より出でて藍より青し」しかし、藍なくば青はない。

チキショウ。

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