2008-05-02

病院の、桜の木

病院の桜は、
なんのために、植えるのだろう。

学校の桜なら、
それは巣立っていく卒業生と、
不安を抱えて挑むような眼差しで、
校門をくぐる入学生に、
零れるような、笑顔を作る、その目的で、
植えられているだろう事は、
容易に想像が付くのだが、

いつ出られるとも知れない、
白い箱の中で
チューブの鎖に留められて、
明日をも知れぬ未来を案じている身に、
咲き誇れる桜は、
何をもたらすというのだろう。

春の目安というのなら、
唯それだけのこと。

来年の桜まで生きようという
肯定的な未来を描かせようというのなら、
それが散ることを、どう説明したらいいのだろう。

むしろ、散ることを、教えるための、花なのか。

後に思い残すことなく、
鮮やかに散れよと、看護し、保護する立場の人間からは、
決して口に出せないその思いを、暗黙裏に伝えるための花ならば、
それはあまりに、残酷ではないか。

復帰と、煩うことのない生活を期待して、入院している者にとって、
それは小さな、しかし決定的な、裏切りではないか。

そんなことは、無いと信じたい。

ならば、なんのための、桜なのか。


煩悶する僕を尻目に、
車いすに乗った女性は、

母とおぼしき女性に車を押してもらいながら、

小さなケイタイで、
咲き誇るしだれ桜を
ぱちり、と撮った。

時折吹く強い南風は、
桜の梢を揺らし、
幾輪かの花から、5枚の花弁を無惨に奪ったが、

その散りゆく花の幾末を、見ているのか見ていないのか、
女性はまだ、桜の木に残る無数の花びらを見て、じっと、
物思いにふけっている。

先ほどのケイタイの小さな
メモリーの中には、
散ることを知らない桜の木が、
長い冬を越えて、
来年の春までも、記憶されていることだろう。

生きることを志望する患者にとって、
桜とは、
いつまでも散らない、その梢なのかも知れない。

彼女と、彼らの脳裏に
その花は、散ることなく、
来年の今頃まで、咲いている。

そして、その記憶と、
現実を合致させるために
彼らは今を、生きるのだ。

思えば、入院とは
図らずも理想から外れた自分を
理想へと、揺り戻す、
その過程に他ならない。

桜の花は
その一つの具体的な理想となって
彼らの未来に、咲き続ける。

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