2008-04-03

○▲□ (まるさんかくしかく) - 13

星がなかったからかな、東京には。

2年前の秋、テツヤはそう言ってカタクリの下を去った。

「二年前、私は浪人生だった。」
カタクリは老夫婦宅での、質素な昼食の後、僕らに語った。
おばあさんが、流しで食器を洗う音がかちゃかちゃと響いた。

縁側に生える竹藪が室内に、涼しげな影を生み出している。
影は風に伴って揺れ、さらさらと鳴った。

おじいさんは、聞こえないのか、縁側の方を見ながら、一人たばこを吸っている。

「テツヤもそうだったの。私たちは二人とも、T大学の理学部を目指していた。私が化学で、テツヤは天文学を学ぶのが夢だった。」
「T大学!?」
カタクリが思わず声を上げた。僕も驚いた。
言わずとしれた関東の名門だ。そして、我が国における、最難関大の一つ。

「あくまで、目指してた、だけだけどね。」
カタクリははにかむように笑った。

「私たちは、目指す進路も似ていたし、抱える悩みも同じだったから、たちまち、仲良くなった。そして、それは気づいたときには、恋に変わっていた。」
カタクリはそこで、不意に、口をつぐんだ。
言葉が、思い出が、後から後から、口をついてきて、何から話せばよいのか、迷っている様子だった。

そうして、しばらく黙り込んだ後、
「で...、その年の秋に、」
ようやく言葉の糸口を見いだしたように、カタクリは継いだ。
「彼は、突然、姿を消したの。」

その別れ際つぶやいたのが、あの言葉だったという。

東京には、星がない。

「そんな、しようもないことって、私思ったわ。」
カタクリは笑った。その瞳は涙で濡れている。

「でも、彼は理由のないことは、しない人だった。何か理由があるって思った。」

カタクリはそれから、テツヤのいなくなった時間の中で、一人、その言葉の意味を考え続けた。
そして、彼が去ったわけを少しでも、理解しようと思った。

なぜだろう、何が、悪かったのだろう。
それを明らかにしない内は、前に進めない気がした。

「孤独だった。ただでさえ、支えが必要なときに、支えてくれるはずの人は、支えることを忘れて、かえって謎を残して、いなくなってしまったんだから」

むろん、試験勉強が、はかどるはずはなかった。
目の前の課題にすら集中できず、問題に取り組もうとしているようで、気がつくと、いつしか手元に残された、テツヤの掛けたなぞなぞをひたすらに解こうと、考えている自分に気づいた。

「その年の試験は」
カタクリは言った。はあ、と大きなため息をついて。
「落ちたわ。前年より、むしろ成績が落ちてたくらい。」
そう言って、また、力なく笑った。

涙が、ぼろぼろとこぼれた。
すかさず、シイタケがハンカチを差し出す。
おばあさんが、手ぬぐいを持ってくる。
僕は先を越されて、何かをしたくても、なすすべのないまま、その涙を見送った。

「ありがとう。」
カタクリは言った。
「ごめんね、」
とも言った。

涙を出し切ったとき、カタクリの瞳はまだ濡れてはいたが、すでに強い光に変わっていた。

「結局、その次の年も落ちちゃって」
カタクリは再び語り始めた。
「地元の大学に行くことにしたの。両親の薦めもあったし。でも...、」

「でも?」
シイタケは聞いた。気がつくと、おばあさんもいかにも心配そうな顔で、カタクリの顔をのぞき込んでいる。
おじいさんは、向こうを向いて、手に持ったたばこを吸い、煙を大きく吐き出した。
煙はおじいさんの前で燻り、けだるげに縁側の光の中に落ちて、静かに消えた。

「不思議な事ってある者ね。あるいは、縁というものかしら。合格発表の時にたくさんサークルの勧誘があったでしょう?あそこで、添田さんも勧誘してたの」
「ああ、」
シイタケが、うんざりした顔をした。
「知ってるの?」
僕は尋ねた。
「知ってるも何も」
シイタケは、その名を言うのもつまらないといった顔で、
「あの、カピパラよ」

「カピ...、添田さんは、」
カタクリは、少し居住まいを正して、
「添田さんは、そのとき熱心に私を誘ってくれて、いろいろと説明してくれたんだけど、その中に、この星見村のミステリーサークル造りの話もあったの。」
僕らにあれほど冷淡に接していながら、カタクリには積極的な勧誘をしたというカピパラを想像し、僕はあきれた。
あれで意外に、かわいい子には目がないのか。
あれに、その資格はあるのか?

「...あたしには、無言でチラシ渡しただけだったわ。」
シイタケは言った。
「...意外とシャイなのね。」

「星見村って名前は、」
カタクリは続けた。
「実は聞いたことがあったんだ。テツヤから。ちょうど、私の前からいなくなるちょっと前にも、数日間出かけていたの。私は、模試があるから出なかったけど、彼はそれを休んでまで。毎年この時期には、星を見に出かけるって言ってた」
星見村は名前の通り、非常によく星が見える事で有名なのだそうだ。この場所は高さもあり、街から遠いため、年中星がよく見えた。

「添田さんは去年も行ったって言ってたから、私、ちょっと迷ったけど聞いてみたの、こういう風貌の、男の人はいませんでしたかって。そしたら、居たって。」
カピパラは、黒ヤギとともに、この老人宅に泊まり、同じ釜の飯を食い、そして、一緒にサークル造りに汗を流したという。

ちょっと見た目暗かったけど、
話してみると、普通だった。

前歯を忘れた顔で、そう言っていたそうだ。

「私それから、相当動揺して。」
カタクリはそのときを思い出したかのように、自分の胸に両の手を当てた。
「もう二度と、会わないと思っていて、忘れようともしていた矢先に、こんな事になっちゃったもんだから。でも、気づいたら」
そう言うと、シイタケの方を向いて微笑んで、
「アカネちゃんに、私も混ぜてって、言ってた。」

「まだ、好きだって事?」
シイタケは尋ねた。
「もう、よく分からない。」
カタクリは言った。かすかに笑っていた。
「好きになって、放り出されて、悩まされて、苦労もして、それで忘れようとして、結局思い出して、またこんなことになって」
カタクリは何かを振り払うように頭を左右に振った。
まっすぐな髪が水のようにさらさらと揺れた。
「振り回されてるって考えても、腹が立つし、結局振り回されてる気がするし。それでも、いずれにしろ、」
カタクリは、そこで大きく息をつき、
「これで終わりにしたいの。」
と言った。

それは、悩むのを終わりにしたいという事だと、僕は思った。
その終わり方が、黒ヤギとの決別を意味するのか、それとも、関係の修復を意味するのか。
そのどちらなのかを、僕は更に本人に聞くことはできなかった。
おそらく本人も、どうなるのか、自分がどうしたいのかをそのとき、その場面になってみるまで、分からないと思っているのだろう。

「恋って、面倒なものよね。」
シイタケが、開き直ったように言った。
「好きだって単純に思っている内はいいんだけど、時間がたつごとに、」
短い足を畳に投げ出して、天井を見上げ、誰とは無しに、語りかけた。
「ちょっと恨んでみたり、誤解してみたり、疑ったり、それらが全部思い過ごしだったり、あるいは全部真実だったり。そうして、いろいろ、妙な色がごちゃごちゃと混じってきて、」
そこで、ふう、と息をついて、
「結局なにがなんだか分からなくなるんだけど、やっぱり遠くから見てみると、一つの恋なのよ。まるで...」

「使い古しの、男のパンツみたい」

...。せっかくいいところまで、言ったのを、なんだかすくわれた気がする。

僕の中には、ベランダにつるされた、おしりの部分の薄くなって、模様がくすみ、色が変わり始めた僕のパンツが、西向きの風に頼りなく揺れる様が浮かんだ。
恋とはつまり、あれなのか。

「ふふっ。そうかもね。」
カタクリは意外に納得している。

「でも、いつまでも、そのままじゃいけないわ。なんだか、みっともないもの」
カタクリは笑った。
シイタケも、併せて笑った。
僕はその姿を見ていた。なんだか、うれしかった。

おばあさん、おじいさんも、いつしか、微笑んでいることに、僕はその時ようやく気づいた。

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